投稿

5月, 2015の投稿を表示しています

人のものををしふると申すは車のおもけれども油をぬりてまわり・ふねを水にうかべて ゆきやすきやうにをしへ候なり - Teaching another something is the same as oiling the wheels of a cart so that they turn even though it is heavy, or as floating a boat on water so that it moves ahead easily.

イメージ
人の ものを をしふる(ひと の もの を 教うる)と申すは 車のおもけれども(重けれども) 油をぬ りて(塗りて)まわり(回り)・ふねを水にうかべて ゆきやすきやう に (往き易きように)をしへ(おしえ)候なり 上野殿御返事(須達長者御書)(1574頁) 弘安3年12月 通解 人がものを教えるというのは、車が重かったとしても、油を塗ることによって車輪が回り、船を水に浮かべて行きやすくなるように教えるのである。 English Translations " The Wealthy Man Sudatta " Teaching another something is the same as oiling the wheels of a cart so that they turn even though it is heavy, or as floating a boat on water so that it moves ahead easily. "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, P 1086 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり - Evil friends will employ enticing words, deception and flattery and speak in a clever manner, thereby gaining control over the minds of ignorant and uninformed people and destroying the good minds that are in them.

イメージ
悪知識(あくちしき)と申すは甘くかたらひ(語らい) 詐り媚び(いつわり こび)  言(ことば)を巧(たくみ)にして愚癡の人 (ぐち の ひと) の心を取つて善心(ぜんしん)を破るといふ事なり 唱法華題目抄(7頁) 文応元年5月 通解 悪知識という者は、甘い言葉で偽り、媚びて、巧みな言葉や善人のような態度や顔で、無知な人の心に悪を行わせる。そして、悪を作させることをもって人の善心を破る。この善心を破ることを名づけて殺というのである(と、涅槃経二十二について章安大師が説かれている)。 English Translations " On Reciting the Daimoku of the Lotus Sutra " Evil friends will employ enticing words, deception and flattery and speak in a clever manner, thereby gaining control over the minds of ignorant and uninformed people and destroying the good minds that are in them. "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.2, P 186 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ - For if you and I should fall into hell together, we would find Shakyamuni Buddha and the Lotus Sutra there.

イメージ
設い(たとい)殿の罪 ふかく(深く)して地獄に入り給はば(はいり たまわば) 日蓮を・いかに仏になれと 釈迦仏こしらへ(しゃかぶつ こしらえ)させ給うとも 用ひ(もちり)まいらせ候(そうらう)べからず 同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・を はしまさずらめ(おわしまさずらめ) 崇峻天皇御書(三種財宝御書)(1173頁) 建治3年11月 通解 もし、あなたの罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあれば、日蓮を「仏になれ」と、どんなに釈迦仏から誘われようとも、従うことはないであろう。あなたと 同じように、 私も 共に 地獄に入ろう。 日蓮とあなたと共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も、同じく地獄にこそいらっしゃるに違いない。 English Translations " The Three Kinds of Treasure " If you should fall into hell for some grave offense, no matter how Shakyamuni Buddha might urge me to become a Buddha, I would refuse; I would rather go to hell with you. For if you and I should fall into hell together, we would find Shakyamuni Buddha and the Lotus Sutra there. "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, P 850 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

一眼のかめの浮木の穴に入り・天より下いとの地のはりの穴に入るがごとし - This is as rare as the one-eyed turtle finding a suitable hollow in a floating sandalwood log, or a thread lowered from the heavens passing through the eye of a needle on earth.

イメージ
臨終(りんじゅう)に南無妙法蓮華経と唱えさせ給いける事は・一眼(いちげん)の かめ(亀)の浮木の穴(うきぎ の あな) に入り・天より下(てん より くだし)いと の(糸の)地 の はりの(針の) 穴に入るがごとし 上野殿御返事(末法要法御書)(1545頁) 弘安元年4月 通解 臨終に南無妙法蓮華経と唱えられたということは、一眼の亀の浮木に たまたま 出会って、その穴に入ることができたようなものであり、天から下した糸が、大地に立ててある針の穴に通ったようなものである。 English Translations " The Teaching for the Latter Day " Chanted Nam-myoho-renge-kyo at the moment of her death. This is as rare as the one-eyed turtle finding a suitable hollow in a floating sandalwood log, or a thread lowered from the heavens passing through the eye of a needle on earth. "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, P 903 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか - It must be ties of karma from the distant past that have destined you to become my disciple at a time like this

イメージ
過去の宿縁(しゅくえん) 追い来つて(おい きたって) 今度(こんど) 日蓮が弟子と成り給うか(なりたもうか)・釈迦 多宝 (しゃか たほう) こそ 御存知(ごぞんじ)候らめ(そうらめ)、「在在諸仏土常 与 師倶生(ざいざい しょぶつどじょう よしぐしょ」 よも 虚事(そらごと) 候はじ 生死一大事血脈抄(1338頁) 文永9年2月 通解 (あなたは)過去の宿縁のめぐり合わせで、この度、日蓮の弟子になられたのであろうか。釈迦仏・多宝如来の二仏こそ、ご存知と思われる。 法華経化城喩品(ほけきょう け じょう じょう ゆほん)第7にある「あらゆるところに在する諸仏の国土に、常に師匠と共に生まれる」の経文は、よもや嘘とは思われない。 English Translations " The Heritage of the Ultimate Law of Life " It must be ties of karma from the distant past that have destined you to become my disciple at a time like this. Shakyamuni and Many Treasures certainly realized this truth. The Sutra’s statement, “Those persons who had heard the Law dwelled here and there in various Buddha lands, constantly reborn in company with their teachers,” cannot be false in any way. "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, P 217 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachin

をとこのしわざはめのちからなり - The strength of the wife that guides the actions of her husband.

イメージ
やのはしる(箭の走る)事は 弓のちから・くもの ゆくこと(雲の行く事)は りう の ちから (竜の力) 、 をと こ の しわざ(男の仕業) は め の ちから(女の力)なり、 いま(今)ときどの (富木殿 ) のこれ へ御わたり(渡り)ある事 尼ごぜん(尼御前)の御力(おん ちから) なり 富木尼御前御返事(弓箭御書)(975頁) 建治2 年3月 通解 矢が飛ぶのは弓の力があるからであり、雲が流れるのは竜の力であるといわれているように、男性(夫)の振舞いは女性(妻)の力のおかげである。今、富木殿がここ(身延の地)まで来られたのは、奥様である尼御前の内助の功によるのである。 English Translations " The Bow and Arrow " It is the power of the bow that determines the flight of the arrow, the might of the dragon that controls the movement of the clouds, and the strength of the wife that guides the actions of her husband. In the same way, it is your support that has enabled Toki to visit me here now. "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, P 656 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし - It is like the lion king,the monarch of all the creatures that run on the ground, and like the eagle, the king of all the creatures that fly in the sky.

イメージ
この経文は一切経(いっさいきょう)に勝れ(すぐれ)たり   地走る者の王たり 師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり 鷲(わし)のごとし、南無阿弥陀仏経等(なむあみだぶつ とう)は きじ(雉)のごとし 兎(うさぎ)のごとし・鷲に つかまれては 涙をながし・師子 せめられは 腸わた(はらわた)をたつ(断つ)、念仏者・律僧・禅僧・真言師等 又かくのごとし、法華経の行者に 値(あい)ぬれば・いろを失い 魂をけすなり 千日尼御前御返事(真実報恩経事)(1310頁) 年月 通解 この法華経の経文は、釈尊の説いた一切経のなかで最も勝れている。地を走る者の王であり、 師子王のよう である。空を飛ぶ者の王であり、鷲のようである。南無阿弥陀仏の経などは、雉のようであり、兎のようである。鷲につかまれては涙を流し、師子に責められては腸を断つのである。 念仏者、律僧、禅僧、真言師なども、また同じである。法華経の行者に値うと、顔色を失い、魂を消すのである。 English Translations " The Sutra of True Requital " This Sutra is superior to all other Sutras. It is like the lion king,the monarch of all the creatures that run on the ground, and like the eagle, the king of all the creatures that fly in the sky.  Sutras such as the Devotion to Amida Buddha Sutra are like pheasants or rabbits. Seized by the eagle, their tears flow; pursued by the lion, fear grips their bowels. And the same is true of people like the Nembutsu adherents, the Precepts priests, the Zen priests, and the True Word teachers.

日蓮 一度もしりぞく心なし - Not once have I thought of retreat

イメージ
第六天(だいろくてん)の魔王(まおう)・十軍(じゅうぐん)のいくさ(戦)を・をこして(起こして)・法華経の行者と生死海(しょうじかい)の海中(かいちゅう)にして 同居穢土(どうこ えど)を・とられじ・うばはんと・あらそう (取られじ・奪わんと・争う) 、日蓮 其の身(その み)にあひあたりて(相当たりて) 大兵(たいへい)を・をこして二十余年なり、日蓮 一度もしりぞく心なし 辧殿尼御前御書(大兵興起御書)(1224頁)文永10年9月 通解 第六天の魔王は、十種の魔の軍勢を率いて戦(いくさ)を起こし、法華経の行者を相手に、生死の苦しみの海の中で、同居穢土(凡夫と聖人が共に住んでいる国土=娑婆世界)を、「とられまい 」「奪おう」と争っている。日蓮は、その第六天の魔王と戦う身にあって、大きな戦を起こして、二十数年になる。その間、日蓮一度も退く心はない。 意訳 第六天魔王は、「欲望」、「憂い、悲しみ」「飢えや喉の渇き」「疑いの心」など、10種類の心の迷いを法華経の行者の心の内面に 起こして、その人の信心をやめさせようとする 。生命の根本的な悩みである生死の苦しみをはじめ、様々な苦悩が混在する現実社会(娑婆世界)を生きていく中 、自身の生命の内面では「仏と魔との戦い」が常に起きている。 日蓮仏法の始祖である日蓮大聖人は、様々な難や魔が競う事を覚悟の上で、「南無妙法蓮華経」の五字七字を弘める戦いを起こしたのである。その間、「日蓮一度もしりぞく心なし」と勝ち抜かれた。私達弟子も、仏の境涯を開くためには、自身の魔の軍勢と戦い、勝ち抜いていかなければならないのである。 English Translations " The Great Battle " The devil king of the sixth heaven has roused the ten kinds of troops and, in the midst of the sea of the sufferings of birth and death, is at war with the votary of the Lotus Sutra to stop him from taking possession of and to wrest

賢聖は罵詈して試みるなるべし - Worthies and sages are tested by abuse

イメージ
鉄(くろがね)は炎打てば(きたい うてば)剣(つるぎ)となる 賢聖(けんしょう)は罵詈して(めり して)試みるなるべし 佐渡御書(958頁) 文永9年3月 通解 鉄は炎に入れて、熱して鍛え打てば剣となる。賢人、聖人は罵ってみて真価が試されるものである。 意訳 ただの鉄も、炎に焼かれ、何度も鍛え打つことで不純物が表面に現れ、取り除かれて強靭な鋼になり、立派な剣に変わる。 これと同じように、仏法者である私達も、様々な困難に直面し、戦い抜いていくことで、自身の過去世からの宿業が、今世において表面に現れる。 この宿業を 取り除くために、 「今こそ自分の信心が試されている時だ」と決意し、強い信心で 乗り越えることで 、自身の宿命転換を成し遂げることができる。 苦難に直面した時こそ、強靭な信心を確立し、強い自分に変わるチャンスなのである。 English Translations " Letter from Sado " Iron, when heated in the flames and pounded, becomes a fine sword. Worthies and sages are tested by abuse. "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, P 303 Interpretation (liberal translation) Just iron is burnt in flame, and it is removed an outcome on the surface, and it is in tough steel, and impurities change to a sword excellent before long by forging it many times, and beating. In the same way as this, the karma from the past world of own appears on the surface in what we who are a Buddhist fight out in the face of

強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ - Chant Nam-myoho-renge-kyo with the prayer that your faith will be steadfast and correct at the moment of death.

イメージ
相構え(あいかまえ)相構えて 強盛の(ごうじょう の)大信力を致して(だいしんりき を いたして) 南無妙法蓮華経・臨終正念(りんじゅうしょうねん)と祈念し給へ、生死一大事の血脈(しょうじいちだいじ の けつみゃく)此れより外に(ほか に)全く求むることなかれ、煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)・生死即涅槃(しょうじ そく ねはん)とは是なり、信心の血脈なくんば 法華経を持つ(たもつ)とも無益(むやく)なり 生死一大事血脈抄(1338頁) 文永9年2月 通解 よくよく心して強盛の大信力を起こして、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念しなさい。生死一大事の血脈をこれよりほかに決して求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とはこのことである。信心の血脈がなければ、法華経を持っても無益である。 意訳 しっかりと強く信心を奮い起こして、南無妙法蓮華経と、「死の間際にあっても信心は揺るがない」という想いで 真剣に 唱え 、祈っていきなさい。 生死一大事 とは、 「 煩悩 即 菩提 」: 生命の根本的な欲求や、人生において生じる様々な欲求が満たされず、生命が迷っている状態 ( 煩悩 ) から、題目を唱えることで、 すぐ に( 即 ) 生命の迷いを見抜き正す、悟りの智慧 を得た生命の状態 ( 菩提 ) に成ることであり、 互いに密接な関係にある 。 「 生死 即 涅槃 」: 生命の根本的な悩みや苦しみ 、人生において生じる様々な悩苦 ( 生死 の悩苦) を、題目を唱えることで、 すぐ に( 即 ) 自身の無限の可能性を引き出し、脳苦を乗り越える力強い仏の生命を悟った 状態 ( 涅槃 ) に成ることであり、 互いに密接な関係にある 。 これらが生命の 真理( 生死 観の 一 番の 大事 ) であり、仏法の究極の法理である。 これを生死一大事というのであり、 これ以外に生命哲学を求めても、真理に至ることはできない。 血脈 とは、 師匠から弟子に、これら究極の生命哲学である仏法を正しく受け継ぎ、継承していくこと であり、人間の血管が心臓から細かく枝分かれしている 様子に例えて、 血脈 というのである。 「生死一大事の血脈」という生命哲学の真理を、末法において正しく説き明かした日蓮大聖人の弟子として、正しく信受し、正しく継承し

命と申す物は一身第一の珍宝なり - Life is the most precious of all treasures

イメージ
命と申す物は一身第一(いっしん だいいち)の珍宝(ちんぽう)なり 一日なりとも・これを延る(のぶる)ならば千万両(せんまんりょう)の金(こがね)にもすぎたり、法華経の一代の聖教に超過して いみじき と申すは寿量品(じゅりょうほん)のゆへ(ゆえ)ぞかし 可延定業書(986頁) 弘安二年 通解 命というものは、わが身にとって第一の珍しい宝である。一日でも寿命を延ばすならば、一千万両の金よりも尊い。法華経が、釈尊一代の説いた諸教の中で最も勝れているというのは、寿量品のゆえである。 意訳 命とは、どのような財宝よりも最も尊い。一日でも寿命を延ばすことができれば、その一日分、法華経の行者としての使命を全うすることができる。 法華経が仏教の中で最も優れている理由は、「あらゆる生命の中に仏性が存在する」ということが、法華経の如来寿量品第十六に説かれているからである。 *私達が日々実践している勤行の「妙法蓮華経如来寿量品第十六(みょうほうれんげきょう にょうらいじゅりょうほん だい16」は、この「法華経の如来寿量品第十六」から抜粋してあるものなのです。 English Translations " On Prolonging One’s Life Span " Life is the most precious of all treasures. Even one extra day of life is worth more than ten million ryō  of gold. [ ryo is The unit of the old Japanese money ]    The Lotus Sutra surpasses all the other sacred teachings of the Buddha’s lifetime because of the “Life Span” chapter. "The Writings of Nichiren Daishonin",Vol.1,P955 Interpretation (liberal translation) The life is the most precious of all trea

或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり - The belief of some is like fire while that of others is like water.

イメージ
今の時・法華経を信ずる人あり・ 或 は (あるい は)火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞(ちょうもん)す る時は・もへたつ(燃え立つ)ばかり をもへども (思えども) ・とをざかり(遠ざかり)ぬれば・すつる(捨る)心あり、 水のごとくと申すは・いつも・たいせず(退せず)信 ずるなり 上野殿御返事(水火二品抄・1544頁)建治4年2月 通解 末法の今この時に、法華経を信じる人がいる。火が燃えるように信ずる人もいれば、あるいは水の流れるように信ずる人がいる。 法華経の話を聞いたその時には、火が燃え上がるように信心をしようと思っても、その時から遠ざかると、信心を捨てようとする心が起きてしまうものである。水のような信心というものは、 水の流れが絶えないのと同じように、常に退転することなく信心に励むことをいうのである。 意訳 様々な思想や宗教が乱立した今の世の中で、日蓮仏法を信仰する人がいる。信心には二種類の 信心がある。「火の信心」と「水の信心」である。 「火の信心」とは、信心の話を聞いたその時には、勢いよく信心に励もうと決意しても、時が経つにつれて炎が消えてしまうような、または魔に負けて消えてしまうような、弱い信心の例えである。 「水の信心」とは、どんな縁や魔が競っても、それに揺るぐことのなく、常に信心を貫き、前進し続ける、強盛な信心の例えである。 また、炎は勢いよく燃えあがるが、いつかは消えてしまう。反対に水は、熱を加えれば沸騰するが、それが過ぎても水に戻る。 この宇宙の法則に従って、自然現象も信心も、同じように例えることができるのである。 これが、南無妙法蓮華経という宇宙のリズムと、自身の生命のリズムが同じであることを顕した、日蓮仏法の真髄であり、熱い信心の情熱を絶え間なくたぎらせるのが「熱湯の信心」なのである。 English Translations " The Two Kinds of Faith " Today there are people who have faith in the Lotus Sutra. The belief of some is like fire while that of others is like water. Whe

とてもかくても 法華経を強いて説き聞かすべし -Therefore, one should by all means persist in preaching the Lotus Sutra and causing them to hear it.

イメージ
とてもかくても 法華経を強いて(しいて)説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし 謗ぜん(ぼうぜん)者は 毒鼓(どっく)の縁(えん)となって仏になるべきなり、何に(いかに)としても  仏の種は 法華経より外に(ほかに)なきなり 法華初心成仏抄(552頁)建治3年 通解 とにもかくにも、法華経を強いて 説き聞かせるべきである。信ずる人は仏になり、謗る(そしる)者は 、涅槃経にある毒鼓の縁(毒を塗った太鼓を叩くと、聞く人も聞こうとしない人も、その音を聞いた者は皆死ぬ((煩悩を滅し、法華経への道を得る))、逆縁となって仏になるのである。 どちらにしても仏の種は、法華経よりほかにはないのである。 意訳 相手が聞くか聞かないかはともかく、「自分の勇気を強く奮い立たせて、誠実に粘り強く」あえて信心の事を語り、信心の種を相手に植え付ける(下種していく)べきである。すぐにその種が芽生える人(発心下種・ほっしんげしゅ)もいれば、すぐには芽生えない人(聞法下種・もんぽうげしゅ)もいる。 どちらにしても、種はまいているのだから、必ず相手が信心をする時がくる。折伏の結果は相手ではなく、自分の一念次第なのである。 English Translations " Those Initially Aspiring to the Way " Therefore, one should by all means persist in preaching the Lotus Sutra and causing them to hear it. Those who put their faith in it will surely attain Buddhahood, while those who slander it will establish a “poison-drum relationship” with it and will likewise attain Buddhahood. In any event, the seeds of Buddhahood exist nowhere apart from the Lotus Sutra. "The Writings of Nichiren Daishon

法酒なり妙は醒めたり妙法と唱うれば無明法性体一なり - When we chant myōhō, or the Wonderful Law, we are expressing the idea that ignorance and a realization of the Dharma nature are in fact a single entity.

イメージ
本迹二門(ほんしゃく にもん) は酒(さけ)なり 南無妙法蓮華経は醒め(さめ)たり 酒と 醒むるとは相離れざる(あい はなれざる)なり、 酒は無明(むみょう)なり 醒むるは(さむる は)法性(ほっしょう)なり 法は酒なり 妙は醒めたり 妙法と唱うれば無明法性 体一なり 御義口伝(735頁) 通解(意訳) 釈尊の説いたあらゆる経も、法華経の本文と迹門の二門も、酒に酔っているか、醒めているかに例えることができる 。文底の南無妙法蓮華経は、醒めている状態である。   酒に酔っている状態と、醒めている状態は、離れたことではない。一人の人間が、酒に酔っているか醒めているかであり、その体は同じである。 酒に酔っている状態は生命が迷っている状態であり、無明である。 酒から醒めている状態は生命が自身の無限の可能性を悟っている状態であり、法性に目覚めた状態である。 妙法の「法」は酔っている状態、すなわち無明であり、「妙」は醒めている状態、すなわち法性である。 南無妙法蓮華経と唱えれば、無明と法性、迷いと悟りと、その体は同じであることを悟ることができるのである。 English Translations " Chapter Eight: Prophecy of Enlightenment for Five Hundred Disciples " The wine and the sobering up from it are mutually inseparable. The wine is ignorance, and the sobering up from it is the realization of the Dharma nature. Hō , or “dharmas” (phenomena), stands for wine, and myō , or “wonderful,” stands for the sobering up. When we chant myōhō , or the Wonderful Law, we are expressing the idea that ignorance and a realization of the Dharma nature are in fact

皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱えがたき題目なり - Were they not Bodhisattvas of the Earth, they could not chant the daimoku.

イメージ
末法にして 妙法蓮華経の 五字を弘めん者は  男女は きらふべからず(きらうべからず)、皆 地涌の菩薩(じゆ の ぼさつ)の出現に非ず(あらず)んば  唱えがたき題目なり 諸法実相抄(1360頁)文永10年5月 通解 末法においては、妙法を広宣流布していくにあたって、そこに男女の差別は絶対にあってはならない。皆、地涌の菩薩の出現でなければ、唱えることのできない題目なのである。 English Translations " The True Aspect of All Phenomena " There should be no discrimination among those who propagate the five characters of Myoho-renge-kyo in the Latter Day of the Law, be they men or women. Were they not Bodhisattvas of the Earth, they could not chant the daimoku. "The Writings of Nichiren Daishonin",Vol.1,P385 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」 第三文明社 ↓感想をチェックして頂ければ幸いです!↓

今 日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり - Now Nichiren and his followers receive the prophecy that is Nam-myoho-renge-kyo.

イメージ
今 日蓮等の類い(にちれん ら の たぐい) 南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処(じゅうしょ)は 山谷曠野皆寂光土(せんごく こうや みな じゃっこうど)なり 御義口伝(781頁) 通解 今、南無妙法蓮華経と唱える日蓮とその門下が住んでいる所は、それが山であり、谷であり、広野(こうや)であっても、全て皆、穢れのない土地(仏国土)である。 意訳 自分が住んでいる地域や、今自分がいる場所が、どんなに辛い場所であっても、南無妙法蓮華経と唱えていき、「自分を信心を鍛える修行の場である」と変えることができる。そうしてその地域や社会で実証を示し、信頼されるような人になることで、その場所にとって必要とされる人材に成長することができるのである。 English Translations "  Chapter Six: Bestowal of Prophecy  Four important points  " Now Nichiren and his followers receive the prophecy that is Nam-myoho-renge-kyo.  " The Orally Transmitted Teachings ",P68 Interpretation (liberal translation) If you will chant "Nam-myoho-renge-kyo", You can change into oneself forward  even if an area and the place where you live in are hard places, "it is the place of ascetic practices to forge one's faith".  And you show proof in an area and society and can grow up to a necessary talented person in what is trusted for the place. 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」