投稿

6月, 2020の投稿を表示しています

火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり - The belief of some is like fire while that of others is like water.

イメージ
本文 法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、 聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり ほけきょう を しんずる ひと あり・あるいは ひ の ごとく しんずる ひと も あり・あるいは みず の ごとく しんずる ひと も あり、 ちょうもん する とき は・もえたつ ばかり おもえども・とおざかり ぬれば・すつる こころ あり、みず の ごとく と もうす は・いつも・たいせず しんずる なり HOKEKYO WO SHINZURU HITO ARI・ARUI WA HI NO GOTOKU SHINZURU HITO MO ARI・ ARUI WA MIZU NO GOTOKU SHINZURU HITO MO ARI, CHŌMON SURU TOKI WA・MOETATSU BAKARI OMOEDOMO・TŌZAKARINUREBA・SUTSURU KOKORO ARI, MIZU TO MŌSU WA・ ITSUMO・TAISEZU SHINZURU NARI 上野殿御返事 うえのどのごへんじ UENO DONO GOHENJI [水火二信抄] すいかにしんしょう SUI-KA NI-SHIN SHŌ (1544頁) 建治4年2月 (1279年) 通解(意訳) 法華経を信ずる人がいる。あるいは火のように信ずる人もあり、あるいは水の流れるように信ずる人もいる。 火のように信ずる人というのは、法華経の法門を聴いたその時は、燃え立つような信心が沸き起こるように思うけれども、時が経つにつれて遠ざかると、その発心した心を忘れてしまうのである。 英語で御書 Gosho in English Today there are people who have faith in the Lotus Sutra. The belief of some is like fire while that of others is like water. When the former listen to the teachings, their passio

先臨終の事を習うて後に他事を習うべし - [ You ] should first of all learn about death, and then about other things.

イメージ
本文 先 臨終の事を習うて 後に他事を習うべし まず りんじゅうの ことを なろうて のちに たじを なろうべし MAZU RINJŪ NO KOTO WO NAROUTE NOCHI NI TAJI WO NAROU BESHI 妙法尼御前御返事 みょうほうあまごぜんごへんじ MYOHO AMA GOZEN GOHENJI [臨終一大事] りんじゅういちだいじ RINJŪ ICHI DAI JI (1404頁) 弘安元年7月 (1278年) 通解(意訳) 先に自分の臨終の時の事を習って、後でその他の事を習うべきである。 仏法においての三世永遠の生命観とは、今世の人生の終わりは、新たな人生の始まりを迎えようとする時であり、来世への旅路の始まりでもある。 その今世の総仕上げの最期、臨終の時に「自分の人生に悔いはない」と思えるには、人生をどう生きていくかを習ってから、その他の事を習うべきである。 英語で御書 Gosho in English Gosho in English [ You ] should first of all learn about death, and then about other things.  " The Importance of the Moment of Death " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.2, p. 759 July, 1278. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  ★Text★ Gosho in Japanese 先 臨終 の 事 を 習うて 後 に 他事 を 習う べし MAZU RINJŪ NO KOTO WO NAROUTE NOCHI NI TAJI WO NAROU BESHI 妙法 尼 御前 御返事 MYOHO AMA GOZEN GOHENJI [臨終 一大事] RINJŪ ICHI-DAIJI 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語

法華経と申すは星の中の月ぞかし - Among the heavenly bodies [at night], the Lotus Sutra is comparable to the moon

イメージ
本文 法華経と申すは星の中の月ぞかし 人の中の王ぞかし 山の中の須弥山・水の中の大海の如し、是れ程いみじき御経に 女人 仏になると説かれぬれば 一切経に嫌はれたるに・なにか・くるしかるべき、 譬えば盗人・夜打・強盗・乞食・渇体にきらはれたらんと 国の大王に讃られたらんと 何れかうれしかるべき。 ほけきょう と もうす は ほし の なか の つき ぞかし ひと の なか の おう ぞかし やま の なか の しゅみせん・みず の なか の たいかい の ごとし、 これほど いみじき おきょう に にょにん ほとけ に なる と とかれぬれば いっさいきょう に きらわれたる に・なにか・くるしかる べき、 たとえば ぬすっと・ようち・ごうとう・こつじき・かったい に きらわれ たらん と くに の だいおう に たたえられ たらん と いずれか うれしかるべき。 HOKEKYO TO MŌSU WA HOSHI NO NAKA NO TSUKI ZOKASHI HITO NO NAKA NO OU ZOKASHI YAMA NO NAKA NO SHUMISEN・MIZU NO NAKA NO TAIKAI NO GOTOSHI, KOREHODO IMIJIKI OKYŌ NI NYONIN HOTOKE NI NARU TO TOKARENUREBA IS'SAI-KYO NI KIRAWARETARU NI ・NANIKA・KURUSHIKARUBEKI, TATOEBA NUSUT'TO・YO-UCHI・GŌTŌ・KOTSUJIKI・KAT'TAI NI KIRAWARE TARAN TO KUNI NO DAIOU NI TATAERARE TARAN TO IZUREKA URESHIKARUBEKI.  日眼女造立釈迦仏供養事 にちげんにょぞうりゅうしゃかぶつくようのこと NICHIGEN-NYO  Z ŌRYŪ  SHAKABUTSU KUY Ō NO KOTO (1188頁) 弘安2年2月 (1279年) 通解(意訳) 法華経という法門は、星の中の月なのである。人の中の王なのである。山の中の須弥山、水の中の大海のようなものであり、諸経の中の王なの

友に合うて礼あるべし - Courtesy toward one’s friends

イメージ
本文 四徳とは・一には父母に孝あるべし・二には主に忠あるべし・三には友に合うて礼あるべし・四には劣れるに逢うて慈悲あれとなり しとく とは・いち には ふぼ に こう ある べし・に には あるじ に ちゅう ある べし・さん には とも に おうて れい ある べし・よん には おとれる に おうて じひ あれ と なり SHI-TOKU TOWA・ICHI NIWA HUBO NI KOU ARUBESHI・NI NIWA ARUJI NI CHŪ ARUBESHI・SAN NIWA TOMO NI OUTE REI ARUBESHI・YON NIWA OTORERU NI OUTE JIHI ARE TO NARI 上野殿御消息 うえのどのごしょうそく UENO DONO GOSHŌSOKU [四徳四恩御書] しとくしおんごしょ SHITOKU SHION GOSHO (1526~1527頁) 建治元年 (1275年) 通解(意訳) 四徳とは、一には父母に孝行であれ、二には仕えている主に忠義であれ、三には友人に会っては礼義正しくあれ、四には自分より弱い者に会ったならば慈悲深くあれ、ということである。 「誠実な人」が「信頼の人」と輝く 身近な人が大切である。その人を宝のごとく大事にすることである。そして、誰に対しても誠実に、礼節をわきまえて接することである。  誠実ほど強いものはない。(中略)  誠実で築いた友情は、壊れない。策でつくった友情は、やがて崩れる。 -池田大作 英語で御書 Gosho in English The four virtues are  (1) filial piety toward one’s father and mother; (2) loyalty to one’s lord; (3) courtesy toward one’s friends; and  (4) pity and kindness toward those less fortunate than oneself.  " Four Virtues and Four Debts of Gratitude " "

人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし - if one lights a fire for others, one will brighten one’s own way.

イメージ
本文 人に物をほどこせば 我が身のたすけとなる、 譬へば 人のために火をともせば・我が まへ あきらかなるがごとし ひと に もの を ほどこせば わがみ の たすけ と なる、 たとえば ひと の ため に ひ を ともせば・わが まえ あきらか なる が ごとし HITO NI MONO WO HODOKOSEBA WAGA MI NO TASUKE TO NARU, TATOEBA HITO NO TAME NI HI WO TOMOSEBA・WAGA MAE AKIRAKA NARU GA GOTOSHI 食物三徳御書 しょくもつさんとくごしょ SHOKUMOTSU SANTOKU GOSHO (1598頁) 年月不明 通解(意訳) 人に物を施せば、かえって我が身を助けることに繋がる。 例えば、人のために灯をともしてあげれば、自分の前も明るくなるようなものである。 英語で御書 Gosho in English If one gives food to others, one will improve one’s own lot, just as, for example, if one lights a fire for others, one will brighten one’s own way. " On the Three Virtues of Food " "The Writings of Nichiren Daishonin",  Vol.2, p. 1060 Unclear Year. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 人 に 物 を ほどこせば 我が 身 の たすけ と なる、 譬へば 人 の ため に 火 を ともせば・我が まへ あきらか なるが ごとし HITO NI MONO WO HODOKOSEBA WAGA MI NO TASUKE TO NARU, TATOEBA HITO NO TAME NI HI WO TOMOSEBA・WAGA MAE AKIRAKA NARU GA GOTOSHI 食物三徳御書

妙とは蘇生の義なり - Myō means to revive

イメージ
本文 妙とは蘇生の義なり蘇生と申すは蘇る義なり みょう とは そせい の ぎ なり そせい と もうす は よみがえる ぎ なり MYO TOWA SOSEI NO GI NARI SOSEI TO MOUSU WA YOMIGAERU GI NARI 法華経題目抄 ほけきょうだいもくしょう HOKEKYO DAIMOKU SHŌ (947頁) 文永3年1月6日 (1266年) 通解(意訳) (南無妙法蓮華経の)妙とは蘇生の意味である。 蘇生とは、悩んで苦しんでいる心や生命が蘇るということである。 英語で御書 Gosho in English Myō means to revive, that is, to return to life. " The Daimoku of the Lotus Sutra "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 149 in January, 1266. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Resuscitation means that the troubled and suffering body and mind is revive. "Myō : 妙" , This is the character of the Nam-Myoho-Renge-Kyo. Gosho in Japanese 妙 とは 蘇生 の 義 なり 蘇生 と 申す は 蘇る 義 なり MYO TOWA SOSEI NO GI NARI SOSEI TO MOUSU WA YOMIGAERU GI NARI 法華経 題目 抄 HOKEKYO DAIMOKU SHŌ 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Recor

地走る者の王たり師子王のごとし - t is like the lion king, the monarch of all the creatures that run on the ground

イメージ
本文 この経文は一切経に勝れたり 地走る者の王たり 師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり 鷲のごとし この きょうもん は いっさいきょう に すぐれたり ち はしる もの の おう たり ししおう の ごとし・そら とぶ もの の おう たり わし の ごとし KONO KYŌMON WA IS'SAI-KYO NI SUGURE TARI CHI HASHIRU MONO NO OU TARI SHISHI-OU NO GOTOSHO・SORA TOBU MONO NO OU TARI WASHI NO GOTOSHI 千日尼御前御返事 せんにちあまごぜんごへんじ SEN NICHI AMA GOZEN GOHENJI [真実報恩経事] しんじつほうおんきょうじ SHINJITSU HŌ-ON KYŌ JI (1311~1312頁) 弘安元年7月 (1278年) 通解(意訳) この法華経の経文は、釈尊の説いた一切経のなかで最も勝れている。地を走る者の王であり、 師子王のようである。空を飛ぶ者の王であり、鷲のようである。 英語で御書 Gosho in English This sutra is superior to all other sutras. It is like the lion king, the monarch of all the creatures that run on the ground, and like the eagle, the king of all the creatures that fly in the sky.  " The Sutra of True Requital "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 929 to 930 in 1278. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese この経文は一切経に勝れたり 地走る者の王たり 師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり 鷲のごとし KONO KYŌMON WA IS'SAI-KYO

広宣流布大願をも成就す可きなり - will fulfill his great vow to broadly proclaim and propagate the Lotus Sutra.

イメージ
本文 法華経の行者は 信心に退転無く 身に詐親 無く・一切法華経に其の身を任せて 金言の如く修行せば、 慥に後生は申すに及ばず 今生も息災延命にして 勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり ほけきょう の ぎょうじゃ は しんじん に たいてん なく み に きしん なく・いっさい ほけきょう に その み を まかせて きんげん の ごとく しゅぎょう せば、 たしか に ごしょう は もうす に およばず こんじょう も そくさいえんめい に して しょうみょう の だいかほう を え・こうせんるふ だいがん をも じょうじゅ す べき なり HOKEKYO NO GYŌJA WA SHINJIN NI TAITEN NAKU MI NI KISHIN NAKU・IS'SAI HOKEKYO NI SONO MI WO MAKASETE KINGEN NO GOTOKU SHUGYŌ SEBA, TASHIKA NI GOSHŌ WA MŌSU NI OYOBAZU KONJŌ MO SOKUSAI-ENMEI NI SHITE SHŌ-MYŌ NO DAI-KAHŌ WO E・KOSEN-RUFU DAIGAN WOMO JŌJU SU BEKINARI 祈祷経送状 きとうきょうそうじょう KITŌKYŌ SŌJŌ (1357頁) 文永10年正月 (1273年) 通解(意訳) 法華経の行者は、信心においては退転なく、行動や振舞いにおいては偽り親しむことなく誠実に、一切を法華経にその身を任せて、金言のとおりに修行するならば、たしかに後生(未来世)はいうまでもなく、今生においても息災延命で、勝れた大果報を得て、広宣流布という大願をも成就することができるであろう。 不退転の信心 『信仰が惰性におちいった時、それはまさしく退転である。信心は、急速に、そして良く変わっていくための実践活動である。』 -  戸田城聖 『「進まざるは退転」です。どこまでも南無妙法蓮華経の御本尊を根本とし、信・行・学を貫き、御書に仰せのままに広宣流布の大願に生き抜くことです。 広宣流布のための祈りに徹すれば、自身に本来具わる、仏の無限の智慧と勇気と力が湧いてきます。 それゆえに

法華経は師子吼の第一なり - The Lotus Sutra is the foremost roar of the lion.

イメージ
本文 師子の筋を琴の絃にかけて・これを弾けば余の一切の獣の筋の絃皆きらざるに・やぶる、 仏の説法をば師子吼と申す乃至法華経は師子吼の第一なり ししのすじを ことの いとに かけて・これを ひけば よ の いっさいの けものの すじの いと みな きらざるに・やぶる、 ほとけの せっぽう をば ししく と もうす ないし ほけきょうは ししくの だいいち なり SHISHI NO SUJI WO KOTO NO ITO NI KAKETE・KORE WO HIKEBA YO NO IS'SAI NO KEMONO NO SUJI NO ITO MINA KIRAZARU NI・YABURU, HOTOKE NO SEP'PO WOBA SHISHIKU TO MŌSU NAISHI HOKEKYO WA SHISHIKU NO DAI-ICHI NARI 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ SHIJŌ-KINGO DONO GOHENJI [梵音声御書] ぼんのんじょうごしょ BON-NON-JŌ GOSHO (1122頁)  文永9年9月 (1272年) 通解(意訳) 師子(獅子)の筋を琴の絃にかけて、これを弾けば、他の一切の獣の筋の絃は、皆切らないのに破れてしまう。 釈迦仏の説法を師子吼という。その中で法華経は師子吼の第一である。 英語で御書 Gosho in English They say that if one uses the sinews of a lion to make strings for a koto* and plucks them, then strings made from the sinews of other animals will automatically snap, even though no one cuts them. The Buddha’s preaching of the Law is called the lion’s roar, and the Lotus Sutra is the foremost roar of the lion. *Japanese Harp &qu

人の身の五尺・六尺のたましひも一尺の面にあらはれ・一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候 - The spirit within one's body of five or six feet may appear in just one's face, which is only a foot long, and the spirit within one's face may appear in just one's eyes, which are only an inch across.

イメージ
本文 南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候、然れども同じ一句の中にも肝心にて候、 南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候・一部の肝要八軸の骨髄にて候。 人の身の五尺・六尺のたましひも一尺の面にあらはれ・一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候、 又日本と申す二の文字に六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍万宝・一もかくる事候はず収めて候、 其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字・一字ももれず・かけずおさめて候 なんみょうほうれんげきょうと もうす は これ いちぐ いっけ にて そうろう、しかれども おなじ いっく の なか にも かんじん にて そうろう、 なんみょうほうれんげきょう と となうる ばかり にて ほとけ に なるべしや と、この ごふしん しょせん に そうろう・いちぶ の かんよう はちじく の こつずい にて そうろう。 ひと の みの ごしゃく・ろくしゃく の たましい も いっしゃく の おもて に あらわれ・いっしゃく の かお の たましい も いっすん の め の うち に おさまり そうろう、 また にほん と もうす に の もじ に ろくじゅう ろく か こく の じんちく・た はた・じょうげ・きせん・しちちん まんぽう・ひとつ も かくる こと そうらわず おさめて そうろう、 その ごとく なんみょうほうれんげきょう の だいもく の うち には いちぶ はちかん・にじゅう はちほん・ろくまん きゅうせん さんびゃく はちじゅう よん の もじ・いちじ も もれず・かけず おさめて そうろう NAM-MYOHO-RENGE-KYO TO MŌSU WA KORE ICHIGU IK'KE NITE S ŌRŌ, SHIKAREDOMO ONAJI IK'KU NO NAKA NIMO KANJIN NITE SŌRŌ, NAM-MYOHO-RENGE-KYO TO TONAURU BAKARI NITE HOTOKE NI NARUBESHIYA TO, KONO GOFUSHIN SHOSEN NI SŌRŌ・ICHIBU NO KANYŌ HACHIJIKU NO

病によりて道心はをこり候なり - Illness gives rise to the resolve to attain the way.

イメージ
本文 病あれば死ぬべしといふ事不定なり、 このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、 病によりて道心はをこり候なり やまい あれば しぬ べし と いう こと ふじょう なり、 この やまい は ほとけ の おん はからい か・その ゆえ は じょうみょうきょう・ねはんぎょう には やまい ある ひと ほとけ に なるべき よし とかれて そうろう、 やまい に よりて どうしん は おこり そうろう なり YAMAI AREBA SHINU BESHI TO IU KOTO FUJYŌ NARI, KONO YAMAI WA HOTOKE NO ON-HAKARAI KA・SONO YUE WA JŌMŌKYO・NEHAN-GYŌ NIWA YAMAI ARU HITO HOTOKE NI NARU BEKI YOSHI TOKARETE SŌRŌ, YAMAI NI YORITE DŌSHIN WA OKORI SŌRŌ NARI  妙心尼御前御返事 みょうしんあまごぜんごへんじ MYŌSHIN AMA GOZEN GOHENJI [病之良薬御書] びょうしりょうやくごしょ BYŌ-SHI-RYŌYAKU GOSHO (1480頁) 弘安元年8月 (1278年) 通解(意訳) 「病気にかかったら必ず死ぬ」という事はない。 (あなたが今回かかった)この病は、仏の御はからいであろうか。 その理由は浄名経・涅槃経には病がある人は仏になる、と説かれている。 病気にかかって初めて生命の大切さが分かり、「人間の生死とは何か」という、仏道を求める心が起こるのである。 英語で御書 Gosho in English It is not certain that, because one is ill, one will die. And could not this illness of your husband’s be the Buddha’s design, because the Vimalakīrti and Nirvana sutras both teach that sick people will sur

先日のまほり暫時も身を・はなさずたもち給へ - Always cherish the Gohonzon that I gave you some time ago for her protection.

イメージ
本文 先日の まほり 暫時も身を・はなさず たもち給へ、其の本尊は正法・像法・二時には 習へる人 だにも なし・まして かき顕し奉る事 たえたり せんじつの まもり ざんじも みも・はなさず たもち たまえ、その ほんぞんは しょうほう・ぞうほう・にじには ならえる ひと だにも なし・まして かきあわらし たてまつること たえたり SENJITSU NO MAMORI ZANJI MO MIMO・HANASAZU TAMOCHI TAMAE,SONO HONZON WA SHŌHŌ・ZŌHŌ・NIJI NIWA NARAERU HITO DANIMO NASHI・MASHITE KAKI ARAWASHI TATEMATSURU KOTO TAE TARI 経王殿御返事 きょうおうどのごへんじ KYŌ-Ō DONO GOHENJI (1124頁) 文永10年8月 (1273年) 通解(意訳) 先日差し上げた御守御本尊は、どんな時も身を離すことなく、受持していきなさい。この御本尊は、正法・像法の二つの時代には、習い伝えた人すらいない。ましてや、書き顕したことは絶えてしまっていたのである。 英語で御書 Gosho in English Always cherish the Gohonzon that I gave you some time ago for her protection. The Gohonzon was never known, let alone inscribed, by anyone in the Former or Middle Day of the Law. " Reply to Kyō’ō " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 412 in August, 1273 [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 先日 の まほり 暫時 も 身 を・はなさず  たもち 給へ、其の 本尊 は 正法・像法・二時 には  習へる 人 だにも なし・まして かき 顕し 奉る 事 たえたり SENJI