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2月, 2020の投稿を表示しています

天晴れぬれば地明かなり - When the skies are clear, the ground is illuminated. Similarly

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本文 天 晴れぬれば 地 明かなり 法華を識る者は 世法を得可きか てん はれぬれば ち あきらか なり ほっけ を しる もの は せほう を う べきか TEN HARE NURE BA CHI AKIRAKA NARI HOKKE WO SHIRU MONO WA SEHŌ WO U BEKI KA 観心本尊抄 かんじんのほんぞんしょう KANJIN NO HONZON SHŌ [如来滅後五五百歳始観心本尊抄] にょらいめつご ご ごひゃくさい に はじむ かんじん の ほんぞんしょう NYORAI-METSUGO GO GOHYAKUSAI NI HAJIMU KANJIN NO HONZON SH Ō (246頁) 文永10年4月 (1272年) 通解(意訳) 天が晴れるならば、大地は明るくなる。太陽の光に従って大地が明るくなるように、法華経を識る者は、世の中の道理と仏法の法理がかけ離れていないこと(世法=仏法即社会)を、自ら明らかに知ることができて、自身の使命を果たし、実証を示すことに目覚めることができるであろう。 英語で御書 Gosho in English When the skies are clear, the ground is illuminated. Similarly, when one knows the Lotus Sutra, one understands the meaning of all worldly affairs. " The Object of Devotion for Observing the Mind Established in the Fifth Five-Hundred-Year Period  after the Thus Come One’s Passing " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 376 in April, 1272. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 天 晴れぬれば 地 明かなり 法華を識る者は

わざわいは口より出でて身をやぶる - Misfortune comes from one’s mouth and ruins one

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本文 わざわいは口より出でて 身をやぶる・さいわいは 心よりいでて我をかざる わざわいは くちより いでで みを やぶる・さいわいは こころより いでて われを かざる WAZAWAI WA KUCHI YORI IDETE MI WO YABURU・ SAIWAI WA KOKORO YORI IDETE WARE WO KAZARU 十字御書 むしもちごしょ MUSHIMOCHI GOSHO (1492頁) 弘安4年1月 (1281年) 通解(意訳) 災事は口から出て、災難を呼び寄せて、自分自身の身を滅ぼす元となる。 幸福とは誠意と真心からの振舞いから、幸福を呼び寄せて、どのような宝石よりも自分自身を輝かせる事ができるのである。 英語で御書 Gosho in English Misfortune comes from one’s mouth and ruins one, but fortune comes from one’s heart and makes one worthy of respect. " New Year’s Gosho "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1137 in January, 1281. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese わざわいは口より出でて 身をやぶる・さいわいは 心よりいでて我をかざる WAZAWAI WA KUCHI YORI IDETE MI WO YABURU・ SAIWAI WA KOKORO YORI IDETE WARE WO KAZARU 十字御書 MUSHIMOCHI GOSHO 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず - No worldly affairs of life or work are ever contrary to the true reality

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本文 御みやづかいを法華経とをぼしめせ、 「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり おんみやづかいを ほけきょうと おぼしめせ、 「いっさい せけんの ちせい さんぎょうは みな じっそうと あい い はいせず」とは これなり ON MIYAZUKAI WO HOKEKYO TO OBOSHIMESE, "IS'SAI SEKEN NO CHISEI SANGYŌ HA MINA JISSŌ TO AI-I HAI SEZU" TOWA KORE NARI 檀越某御返事 だんおつぼうごへんじ DAN-OTSUBŌ GOHENJI (1295頁) 弘安元年4月 (1278年) 通解(意訳) あなたの仕事が、そのまま法華経の修行なのだと思いなさい。法華経に「社会全般の政治・経済・産業・日常生活は皆、法華経と相反する事はない」と説かれているのは、このことである。 仕事も、日常生活も、すべてが法華経の教えの根本である「誠実な振る舞い」が基本となっているのである。 英語で御書 Gosho in English Regard your service to your lord as the practice of the Lotus Sutra. This is what is meant by “No worldly affairs of life or work are ever contrary to the true reality.” " Reply to a Believer " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 905 in April, 1278. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Regard your work as the practice of the Lotus Sutra. Because the work and everyday life are all based on "T

すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし - you must act and speak without the least servility.

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本文 同くは・なげきたるけしきなくて此の状に・かきたるが・ごとく・すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん、 設ひ所領をめされ追い出し給うとも十羅刹女の御計いにてぞ・あるらむと・ふかくたのませ給うべし おなじくは・なげきたる けしき なくて この じょう に・かきたるが・ごとく・すこしも・へつらわず ふるまい おおせ あるべし、なかなか へつらう ならば・あしかりなん、 たとい しょりょう を めされ おいだし たもう とも じゅうらせつにょ の おんはからい にてぞ・あるらん と・ふかく たのませ たもうべし ONAJIKU WA・NAGEKITARU KESHIKI NAKUTE KONO JŌ NI・KAKITARU GA・GOTOKU・SUKOSHIMO・HETSURAWAZU FURUMAI ŌSE ARUBESHI, NAKANAKA HETSURAU NARABA・ASHIKARINAN, TATOI SHORYŌ WO MESARE OIDASHI TAMOUTOMO JŪRASETSU-NYO NO ON HAKARAI NITEZO・ARURAN TO・FUKAKU TANOMASE TAMOUBESHI 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ SHIJ Ō KINGO DONO GOHENJI [不可惜所領事] ふかしゃくしょしょりょうじ FUKASHAKU SHOSHORY Ō JI (1163~1164頁) 建治3年7月 (1277年) 通解(意訳) 同じ一生ならば、嘆いたような様子を見せずに、あなたがこの誓状に書かれた「決して退転しない」という強い決意のように、少しもへつらわず、今までのあなたの振舞い通りに、誠実に、堂々と振舞い、語っていきなさい。中途半端にへつらうようなことがあれば、かえって状況が悪くなるであろう。 たとえ所領を没収され、追い出されたとしても、それは諸天善神である十羅刹女の御計いであり、「必ず意味がある事だ」と、信心の眼で受け取って、より深く信心を奮い起こして、諸天にゆだねておきなさい。 英語で御書 Gosho in English Since it will be the s

命限り有り惜む可からず - Life is limited; we must not begrudge it.

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本文 流罪の事 痛く歎せ給ふべからず、 勧持品に云く不軽品に云く、 命限り有り 惜む可からず 遂に願う可きは仏国也 るざい の こと いたく なげかせ たもう べからず、かんじぼん に いわく ふきょうぼん に いわく、 いのち かぎり あり おしむ べからず つい に ねがう べき は ぶっこく なり RUZAI NO KOTO ITAKU NAGEKASE TAMOU BEKARAZU, KANJIBON NI IWAKU FUKYŌBON NI IWAKU, INOCHI KAGIRI ARI OSHIMU BEKARAZU TSUI NI NEGAU BEKI WA BUKKOKU NARI 富木入道殿御返事 ときにゅうどうどのごへんじ TOKI NYUDŌ DONO GOHENJI [願望仏国事] がんぼうぶっこくじ GANBŌ BUK'KOKU JI (955~956頁) 文永8年11月 (1271年) 通解(意訳) 日蓮の佐渡流罪のことは、決して嘆いてはならない。勧持品や不軽品にあるとおり、大難にあうのは法華経の行者の証拠だからである。 命は限りあるものであるから、今世の人生を法華経のために使い、惜しんではならない。最終的に願うべきは、現実社会を幸福な仏国土へと変える事を実現する事である。 英語で御書 Gosho in English You absolutely must not lament over my exile. It says in the “Encouraging Devotion” chapter and in the “Never Disparaging” chapter [that the votary of the Lotus Sutra will meet with persecution]. Life is limited; we must not begrudge it. What we should ultimately aspire to is the Buddha land. " Aspiration for the Buddha Land " "The Writin

釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ - Devadatta was the foremost good friend to the Thus Come One Shakyamuni.

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本文 釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、 今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり しゃかにょらい の おんため には だいばだった こそ だいいち の ぜんちしき なれ、いま の せけん を みる に ひと を よく なす もの は かたうど よりも ごうてき が ひと をば・よく なしけるなり SHAKA NYORAI NO ON-TAME NIWA DAIBA-DAT'TA KOSO DAI-1 NO ZEN-CHISHIKI NARE, IMA NO SEKEN WO MIRU NI HITO WO YOKU NASU MONO WA KATAUDO YORIMO GOUTEKI GA HITO WOBA・YOKU NASHIKERU NARI 種種御振舞御書 しゅじゅおふるまいごしょ SHUJU OFURUMAI GOSHO [佐渡抄] さどしょう SADO SH Ō (917頁)  建治2年3月 (1276年) 通解(意訳) 釈迦如来にとっては、釈尊の弟子でありながら嫉妬に狂って退転し、釈尊を迫害した提婆達多こそが、釈尊の正しさを証明した第一の善知識ではなかったか。 今の世間を見ると、人をより良く成長させ、強くするものは、味方よりも強敵が人をよくしているのである。 英語で御書 Gosho in English Devadatta was the foremost good friend to the Thus Come One Shakyamuni. In this age as well, it is not one’s allies but one’s powerful enemies who assist one’s progress. " The Actions of the Votary of the Lotus Sutra " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 765 in February, 1277. [ --- ] is liberal translatio

冬は必ず春となる - Winter always turns to spring

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本文 法華経を信ずる人は冬のごとし 冬は必ず春となる、 いまだ昔より きかず・みず 冬の秋と かへれる事を、いまだきかず 法華経を信ずる人の凡夫となる事を、 経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候 ほけきょう を しんずる ひと は ふゆ の ごとし ふゆ は かならず はる と なる、 いまだ むかし より きかず・みず ふゆ の あき と かえれる ことを、いまだ きかず ほけきょう を しんずる ひと の ぼんぷ と なる ことを、 きょうもん には「にゃく う もん ぽう しゃ む いち ふ じょう ぶつ」と とかれて そうろう HOKEKYO WO SHINZURU HITO WA FUYU NO GOTOSHI FUYU WA KANARAZU HARU TO NARU, IMADA MUKASHI YORI KIKAZU・MIZU FUYU NO AKI TO KAERERU KOTO WO, IMADA KIKAZU HOKEKYO WO SHINZURU HITO NO BONPU TO NARU KOTOWO, KYŌ MON NIWA 「NYAKU U MONPŌ-SHA MU-ICHI FU-JŌBUTSU」TO TOKARETE SŌRŌ 妙一尼御前御消息 みょういちあまごぜんごへんじ MY ŌICHI AMA GOZEN GOHENJI [冬必為春事] ふゆはかならずはるとなるのこと FUYU WA KANARAZU HARU TO NARU NO KOTO (1253頁) 建治元年5月 (1275年) 通解(意訳) 法華経を信ずる人は、極寒の冬の辛い時期を耐える人のようなものである。 しかし、辛い冬も永遠に続くことはなく、信心根本に耐え貫いていけば、必ず春のような幸福が訪れるのである。 未だかつて、冬が春とならずに秋に戻ったということは、聞いたことも見たこともない。同じように、いまだかつて法華経を信ずる人が、仏に成らず凡夫のままである、ということも聞いたことがない。 経文には「もしこの法を聞くことがあれば、一人として成仏しない人はいない」と説かれている。 英語で御書 Gosho in English Those who

難来るを以て安楽と意得可きなり - when one practices the Lotus Sutra under such circumstances, difficulties will arise, and these are to be looked on as “peaceful” practices.

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本文 末法に於て今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり まっぽうに おいて いま にちれんらの たぐいの しゅぎょうは みょうほうれんげきょうを しゅぎょうするに なん きたるを もって あんらくと こころうべきなり MAPPŌ NI OITE IMA NICHIREN RA NO TAGUI NO SHUGYŌ WA MYOHO-RENGE-KYO WO SHUGYŌ SURU NI NAN KITARU WO MOT'TE ANRAKU TO KOKORO U BEKI NARI 御義口伝 おんぎくでん ON GI KUDEN  安楽行品五箇の大事 あんらくぎょうぼんごかのだいじ ANRAKUGY ŌBON 5KA NO DAIJI 第一 安楽行品の事 だいいちあんらくぎょうぼんのこと DAI1 ANRAKUGY ŌBON NO KOTO (750頁) 通解(意訳) 末法において、日蓮とその門下の修行とは、南無妙法蓮華経の題目を自分も唱え、他人にも妙法の素晴らしさを語り、題目を勧めていく「折伏行」であり、仏法対話である。 この折伏行の時に、様々な難が競い起きてくることで、自己の境涯を高めるための試練であり、これを乗り越える事で自己が鍛えられ、何事にも動じない「安楽な境涯を得る事ができる」と心得るべきである。 英語で御書 Gosho in English Concerning the “peaceful” practices of the Lotus Sutra of the Wonderful Law and the practices carried out by Nichiren and his followers now in the Latter Day of the Law, you should understand that, when one practices the Lotus Sutra under such circumstances, difficulties will arise, and these are to be looked on as “peaceful” practices.

金剛不滅の仏身とならん事 あにかの仏にかわるべきや - Attain the Buddha’s body, which is as indestructible as a diamond. How then could they be different from that Buddha?

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本文 法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事 あに かの仏にかわるべきや ほけきょう の ぎょうじゃ と なりて むししきしん・ほんぜりしょう・みょうきょうみょうち・こんごうふめつ の ぶっしん と ならん こと あに かの ほとけ に かわるべきや HOKEKYO NO GYŌJA TO NARITE MUSHI-SHIKISHIN・HONZE-RISHŌ・MYŌKYŌ-MYŌCHI・KONGŌ-FUMETSU NO BUS'SHIN TO NARAN KOTO ANI KANO HOTOKE NI KAWARU BEKIYA 船守弥三郎許御書 ふなもりやさぶろうもとごしょ FUNAMORI YASABUR Ō MOTO GOSHO   [伊豆流罪事] いずるざいじ IZU RUZAI JI (1446頁) 弘長元年6月 (1261年) 通解(意訳) 法華経の行者になったなら、 永遠に生死を繰り返してきた凡夫の生命 に、 本来から仏性が備わっている のだから( 無始色心 ・ 本是理性 、むし しきしん・ほん ぜ りしょう)、 妙法によって無限の可能性を秘めた仏の境涯 を開き、 妙法の当体である御本尊は、自分自身の胸中に存在している仏性である事を智解 し、自覚して(妙境妙智、みょうきょう みょうち)、 信心を深く奮い起こしていくことで、 何ものにも永遠に破壊されることない 「絶対的な幸福境涯」( 金剛不滅 、こんごう ふめつ の 仏身)を確立できるのである。 この仏の境涯は、一切衆生に等しく備わっているのだから、どうして釈尊の仏の境涯と異なることがあろうか。 万人幸福のための日蓮仏法 日蓮大聖人の「人権宣言」と拝したい。妙法の修業によって、必ず教主釈尊にも等しい「金剛不滅の仏身」となるのです -と。  何が起ころうと、ダイヤモンドのごとく厳然と崩れぬ幸福境涯になるのです。今世でそうなるのです。万人がそうなるための法華経なのです。 - 池田大作 英語で御書 Gosho in English Living beings like ourselves have dwelt in the sea of th

是あに地涌の義に非ずや - Does this not signify “emerging from the earth”?

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本文 日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、 是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし にちれん ひとり はじめ は なんみょうほうれんげきょう と となえしが、ににん・さんにん・ひゃくにん と しだい に となえ つたうる なり、みらい も また しかるべし、 これ あに じゆ の ぎ に あらずや、あまつさえ こうせんるふ の とき は にほん いちどう に なんみょうほうれんげきょうと となえん こと は だいち を まと と する なるべし NICHIREN HITORI HAJIME WA NAN-MYOHO-RENGE-KYO TO TONAESHI GA, NI-NIN・SAN-NIN・HYAKU-NIN TO SHDAI NI TONAE TSUTAURU NARI, MIRAI MO MATA SHIKARUBESHI, KORE ANI JIYŪ NO GI NI ARAZUYA, AMATSUSAE KŌSEN-RUFU NO TOKI NIWA NIHON ICHIDOU NI NAM-MYOHO-RENGE-KYO TO TONAEN KOTO WA DAICHI WO MATO TO SURU NARU BESHI 諸法実相抄 しょほうじっそうしょう SHOHŌ JISSŌ SHŌ (1360頁) 文永10年5月 (1273年) 通解(意訳) はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人・三人・百人と次第に唱え伝えてきたのである。未来もまたそうであろう。 これが地涌の義ではないだろうか。そればかりか広宣流布のときは、あらゆる人達が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものである。 英語で御書 Gosho in English At first only Nichiren chanted Nam-myoho-renge-kyo, but then two, three, and a hundred followed, chanting and teaching others. Propagation wil

貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ - Following me, you, as a votary of the Lotus Sutra, have told others of this Law.

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本文 貴辺 又 日蓮にしたがひて 法華経の行者として 諸人にかたり給ふ 是れ 豈 流通にあらずや きへん また にちれんに したがいて ほけきょうのぎょうじゃとして しょにんに かたりたもう これ あに るつうに あらずや KIHEN MATA NICHIREN NI SHITAGAITE HOKEKYO NO GY ŌJA TOSHITE SHONIN NI KATARI TAMOU KORE ANI RUTSŪ NI ARAZUYA 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ SHIJŌ KINGO DONO GOHENJI [煩悩即菩提御書] ぼんのうそくぼだいごしょ BON-NŌ SOKU BODAI GOSHO (1117頁) 文永9年5月 (1272年) 通解(意訳) あなたもまた、日蓮に続いて、法華経の行者として信心の素晴らしさを様々な人に語られている。これこそまさに広宣流布ではないか。 英語で御書 Gosho in English Following me, you, as a votary of the Lotus Sutra, have told others of this Law. What else could this be but the transmission of the Law? " Earthly Desires Are Enlightenment " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 319 in May, 1272. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 貴辺 又 日蓮 に したがひて 法華経 の 行者 と して 諸人 に かたり 給ふ 是れ 豈 流通 に あらずや KIHEN MATA NICHIREN NI SHITAGAITE HOKEKYO NO GYŌJA TO SHITE SHONIN NI KATARI TAMOU KORE ANI RUTSŪ NI ARAZUYA 四条 金吾 殿 御返事 SHIJŌ KINGO DONO GOH

其の上は私に計り申すに及ばず候 叶ひ叶はぬは御信心により候べし - Now there is no need to attempt to surmise yourself how things will go. Whether or not your prayer is answered will depend on your faith

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本文 其の上は 私に計り申すに及ばず候 叶ひ叶はぬは御信心により候べし 全く日蓮がとがにあらず、 水すめば 月うつる 風ふけば 木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし 信の よはきは にごるがごとし、信心の・いさぎよきは すめるがごとし 木は道理のごとし・風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ そのうえ は わたし に ばかり もうす に およばず そうろう かない かなわぬ は ごしんじん に より そうろう べし まったく にちれん が とが に あらず、 みず すめば つき うつる かぜ ふけば き ゆるぐ ごとく・みな の みこころ は みず の ごとし しん の よわき は にごる が ごとし、しんじん の・いさぎ よき は すめる が ごとし きは どうりの ごとし・かぜの ゆるがすは きょうもんを よむが ごとしと・おぼしめせ SONO UE WA WATASHI NI BAKARI MŌSU NI OYOBAZU SŌRŌ KANAI KANAWANU WA GOSHINJIN NI YORI SR BESHI MAT'TAKU NICHIREN GA TOGA NI ARAZU, MIZU SUMEBA TSUKI UTSURU KAZE FUKEBA KI YURUGU GOTOKU・MINA NO MIKOKORO WA MIZU NO GOTOSHI SHIN NO YOWAKI WA NIGORU GA GOTOSHI, SHINJIN NO・ISAGIYOKI WA SUMERU GA GOTOSHI KI WA DŌRI NO GOTOSHI・KAZE NO YURUGASU WA KYŌMON WO YOMU GA GOTOSHI TO・OBOSHIMESE 日厳尼御前御返事 にちごんあまごぜんごへんじ NICHIGON AMA GOZEN GOHENJI (1262頁) 弘安3年10月 (1280年) 通解(意訳) 信心の功徳について、これを自分勝手の解釈で御本尊の功徳を推し量ってはならない。 日蓮が、あなたの願いをいくら祈ったところで、願いが叶うか叶わないかは、結局は全てあなたの御信心によるものであり、全く日蓮のせいではない。 例