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3月, 2023の投稿を表示しています

甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず - Even a feeble person will not stumble if those supporting him are strong

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本文 夫れ 木をうえ候には 大風吹き候へども つよき すけを かひぬれば・たうれず、本より生いて候 木なれども 根の弱きは・たうれぬ、 甲斐無き者なれども・たすくる者強ければ たうれず、すこし健の者も 独なれば悪しき みちには・たうれぬ それ き を うえ そうろう には おおかぜ ふき そうらえども つよき すけ を かい ぬれば・たうれず、もと より おいて そうろう き なれども ね の よわき は・たうれぬ、 かい なき もの なれども・たすくる もの つよければ たうれず、すこし けなげ の もの も ひとり なれば あしき みち には・たうれぬ 三三蔵祈雨事 さんさんぞうきうのこと (1468頁) 建治元年6月 (1275年) 通解(意訳) そもそも、木を植えた場合、大風が吹いたとしても、強い支柱で支えてあれば倒れない。元々生えていた木であっても、根が弱ければ倒れてしまう。 弱くて不甲斐ない者であっても、助けるものが強ければ倒れない。すこし強くで頑強な者であっても、独りであれば悪い道では倒れてしまうのである。 善き友 『孤独』になってはいけない。人を『孤独』にしてもいけない。悩みに寄り添って、その苦しい『心音』に耳を傾けてあげなければ。  そうすることによって、じつは自分自身が癒されていくのです。人を受け入れ、励ますことによって、自分の心が励まされ、開かれていくのです。 -池田大作  英語で御書 Gosho in English When a tree has been transplanted,though fierce winds may blow, it will not topple if it has a firm stake to hold it up. but even a tree that has grown up in place may fall over if its roots are weak. Even a feeble person will not stumble if those supporting him are strong, but a person of considerable strength, when alone, may fall down on an uneven path.

合掌とは法華経の異名なり - Gasshō, or “pressing the palms together,” is another name for the Lotus Sutra

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本文 合掌とは法華経の異名なり 向仏(こうぶつ)とは法華経に値い奉ると云うなり 合掌は色法なり 向仏は心法なり、 色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍(かんぎ ゆやく)と説くなり がっしょうとはほけきょうのいみょうなりこうぶつとはほけきょうにあいたてまつるというなり がっしょうはしきほうなりこうぶつはしんぽうなり、 しきしんのにほうをみょうほうとかいごするをかんぎゆやくととくなり 御義口伝 おんぎくでん 譬喩品九箇の大事 ひゆぼんきゅうかのだいじ 第二 即起合掌の事  だいに そっきがっしょうのこと (722頁) 通解(意訳) 「合掌」とは法華経の異名である。「向仏」とは、妙法蓮華経にあいたてまつるということである。 合掌は色法(肉体・身心の変化の法)の姿であり、向仏とは信心であり、心法(心や精神の変化の法)である。 色心の二法を妙法蓮華経であると悟る事を、譬喩品の中で、釈尊の弟子である舎利弗が、喜びのあまり踊り出したと説くのである。 歓喜踊躍(歓喜のあまり身体は踊りだし、心はいきいきとしていて、その人の身心の生命が躍動する姿)とは、色法と心法がかけ離れたものではなく一体の姿(色心不二)なのであり、歓喜踊躍と説くのであり、この歓喜こそ法華経の真髄の妙法蓮華経と説くのである。 英語で御書 Gosho in English Gasshō [;合掌] , or “pressing the palms together,” is another name for the Lotus Sutra.  Kōbutsu [;向仏] , or “turning to face the Buddha,” means that one encounters and pays respect to the Lotus Sutra. Pressing the palms together is an element of the body. Turning to face the Buddha is an element of the mind. The passage describes how one dances with joy when one comes to the realization that the elements of

つちのもちゐを仏に供養せし人は王となりき - A man who offered a mud pie to the Buddha was reborn as a king.

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本文 竜馬につきぬる・だには千里をとぶ、松にかかれる・つたは千尋をよづと申すは是か、各各主の御心なり、 つちのもちゐを 仏に供養せし人は 王となりき、法華経は仏にまさらせ給う法なれば 供養せさせ給いて、いかでか 今生にも 利生にあづかり 後生にも 仏にならせ給はざるべき  りょうめ に つきぬる・だに は せんり を とぶ、まつ に かかれる・つた は せんじん を よず と もうす は これ か、おのおの しゅ の みこころ なり、 つち の もちい を ほとけ に くよう せし ひと は おう と なりき、ほけきょう は ほとけ に まさらせ たもう ほう なれば くよう せ させ たまいて、いかでか こんじょう にも りしょう に あずかり ごしょう にも ほとけ に ならせ たまわざる べき 九郎太郎殿御返事 くろうたろうどのごへんじ [題目仏種御書] だいもくぶっしゅごしょ (1554頁) 弘安元年11月 (1278年) 通解(意訳) (故・上野殿は、ただ南無妙法蓮華経の七字を信じて仏に成られた。あなた方もその一族なので、同じように志(こころざし)を果たされるであろう) 竜馬(駿馬、良い馬)にとりついたダニは千里を飛ぶことができ、松にかかったツタは、千尋という高さをよじ登るというのは、このことであろう。あなたがた上野殿(南条家)の一族は、信心強盛であられた故・上野殿(南条兵衛七郎)と同じ志をお持ちであられる。 土の餅を釈尊に供養した人は、のちに国王となった。法華経は釈尊より勝れた法であるから、この法華経に供養された人が、どうして今生でも利益(りやく)を授かる事ができ、後生に仏に成れないはずがあるだろうか。 英語で御書 Gosho in English A mite clinging to a fleet horse flies a thousand miles, and that the ivy winding around the pine tree soars a thousand feet? Each of you possesses the same heart as the late Ueno. A man who offered a mud pie to the Buddha was reborn as a king.

来集して我が身に入りかはり我を助け給へ - Will all gather and take possession of your body to assist you

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本文 釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へ と 観念せさせ給うべし しゃか・たほう・じっぽうのほとけ・らいしゅうしてわがみにいりかわりわれをたすけたまえとかんねんさせたもうべし 弥三郎殿御返事 やさぶろうどのごへんじ (1451頁) 建治3年8月 (1277年) 通解(意訳) 釈迦仏・多宝仏・十方の仏が集い来て我が身に入りかわり、我を助けたまえと、諸天善神や教主釈尊をも揺り動かすような題目を唱え、御祈念していきなさい。 英語で御書 Gosho in English You should pray intently that Shakyamuni, Many Treasures, and the Buddhas of the ten directions will all gather and take possession of your body to assist you. " Reply to Yasaburō " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 829 in August, 1277. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  You should chanting the DAIMOKU with momentum that shakes the Buddhas. Gosho in Japanese 釈迦・多宝・十方 の 仏・来集 して 我が 身 に 入りかはり 我 を 助け 給へ と 観念 せさせ 給う べし SHAKA・TAHŌ・JIPPŌ NO HOTOKE・RAISHŪ SHITE WAGA MI NI IRI-KAWARI WARE WO TASUKE TAMAE TO KAN-NEN SASE TAMOU BESHI 弥三郎 殿 御返事 YASABURŌ DONO GOHENJI 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daisho

諸河の水入る事なくば大海あるべからず - Were it not for the flowing rivers, there would be no sea.

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本文 大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、 法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし、 諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ たいかい へ しゅうる いる・されども たいかい は かわ の みず を かえす こと ありや、 ほっけ たいかい の ぎょうじゃ に しょが の みず は だいなん の ごとく いれども・かえすこと とがむる こと なし、 しょが の みず いること なくば たいかい ある べからず、だいなん なくば ほけきょう の ぎょうじゃ には あらじ 椎地四郎殿御書 しいじしろうどのごしょ [如度得船御書] にょととくせんごしょ [身軽法重死身弘法御書] しんきょうほうじゅうししんぐほうごしょ (1448頁) 弘長元年4月 (1261年) 通解(意訳) 大海には様々な河水が流れこむ。けれども、大海は河水を押し返すようなことがあるだろうか。 法華経という大海の行者には、様々な河水のように大難として流れ込むが、大難を押し返すことも、とがめたりすることもない。 河水が入ることがなければ、大海ではないからである。大難がなければ法華経の行者ではないのである。 英語で御書 Gosho in English All rivers flow into the sea, but does the sea turn back their waters? The currents of hardship pour into the sea of the Lotus Sutra and rush against its votary. The river is not rejected by the ocean; nor does the votary reject suffering. Were it not for the flowing rivers, there would be no sea. Likewise, without tribulation there would be no votary of the Lotus Sutra. " A Ship to Cross the Sea of Suffering " "Th

妙とは蘇生の義なり - Myō means to revive

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本文 妙とは蘇生の義なり 蘇生と申すは蘇る義なり みょう とは そせい の ぎ なり そせい と もうす は よみがえる ぎ なり 法華経題目抄 ほけきょうだいもくしょう (947頁) 文永3年1月6日 (1266年) 通解(意訳) (南無妙法蓮華経の)妙とは蘇生の意味である。 蘇生とは、悩んで苦しんでいる心や生命が蘇るということである。 妙とは蘇生の義なりの実証を示す 「生死」の問題は、「こうなっています。こういう理屈です」と言うだけでは、解決しない。 悲嘆にくれている。涙にむせんでいる、固く心を閉ざしている―その人のために、身を粉にし、誠実を尽くしてこそ、心を「蘇生」させられる。 「妙とは蘇生の義なり」の実証が出るのです。 ‐ 池田大作 英語で御書 Gosho in English Myō means to revive, that is, to return to life. " The Daimoku of the Lotus Sutra "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 149 in January, 1266. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Resuscitation means that the troubled and suffering body and mind is revive. "Myō : 妙" , This is the character of the Nam-Myoho-Renge-Kyo. Demonstration the proof of the "Myō means to revive." The problem of "life and death" cannot be solved simply by saying "This is what it is. This is the reason." Grieving, In tears, Thightly closed heart - Only by c

石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる - Put into flames, a rock simply turns to ashes, but gold becomes pure gold.

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本文 各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪を せめいだし給いて候、 たとへば くろがねを よくよく きたへば きずの あらわるる が ごとし、石は やけば はいとなる 金は・やけば真金となる、 此の度こそ・まことの御信用は・あらわれて 法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ おのおの・ずいぶん に ほけきょう を じんぜられつる・ゆえ に かこ の じゅうざい を せめ いだし たまいて そうろう、 たとえば くろがね を よくよく きたえば きず の あらわるる が ごとし、 いし は やけば はい と なる 金 は やけば しんきん と なる、 この たび こそ・まこと の ごしんよう は・あらわれて ほけきょう の じゅうらせつ も しゅご せ させ たもうべき にて そうらめ 兄弟抄 きょうだいしょう (1083頁) 文永12年4月 (1275年) 通解(意訳) あなた達はそれぞれに、これまで随分と法華経を信じられてきた。それゆえ、過去世で犯した重罪への重い償いを、軽くして今世に責め出しているのである。 これは、たとえば鉄を鍛錬するためにしっかりと鍛え打てば、内部に隠れていた傷が表面にあらわれて、本物の鋼へと鍛えられるようなものである。また、石は焼けば灰になるが、金は焼いて精錬すれば純金へと変わる。 今回の困難こそ、あなた方の信心が本物かどうかが試される「試練」として現れたのだろう。法華経の十羅刹女(諸天善神)もあなたがたを必ず守護するにちがいない。 英語で御書 Gosho in English Both of you have continued believing in the Lotus Sutra; thus you are now ridding yourselves of your grave offenses from the past. For example, the flaws in iron come to the surface when it is forged. Put into flames, a rock simply turns to ashes, but gold becomes pure gold. This trial, more than anything else, wi

法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり - No treasure tower exists other than the figures of the men and women who embrace the Lotus Sutra

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本文 末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、 若し然れば 貴賤上下をえらばず 南無妙法蓮華経と・となうるものは 我が身 宝塔にして 我が身 又 多宝如来なり、 妙法蓮華経より外に 宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり 宝塔 又 南無妙法蓮華経なり まっぽう に いって ほけきょう を たもつ なんにょ の・すがた より ほか には ほうとう なき なり、 もし しかれば きせん じょうげ を えらばず なんみょうほうれんげきょう と・となうる もの は わが み ほうとう に して わが み また たほうにょらい なり、 みょうほうれんげきょう より ほか に ほうとう なき なり、ほけきょう の だいもく・ほうとう なり ほうとう また なんみょうほうれんげきょうなり 阿仏房御書 あぶつぼうごしょ [宝塔御書] ほうとうごしょ (1304頁) 文永9年3月(1272年) (建治2年(1279年)説有り) 通解(意訳) 末法に入って、法華経(御本尊)を持つ男女の姿より他には宝塔はない。 もしそうであれば、身分の貴さやいやしさ、立場の上と下といった差別なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人自身がそのまま宝塔であり、またその身が多宝如来(仏)なのである。 妙法蓮華経以外に宝塔はない。法華経の題目は南無妙法蓮華経が宝塔である。宝塔はまた南無妙法蓮華経なのである。  英語で御書 Gosho in English In the Latter Day of the Law, no treasure tower exists other than the figures of the men and women who embrace the Lotus Sutra. It follows, therefore, that whether eminent or humble, high or low, those who chant Nam-myoho-renge-kyo are themselves the treasure tower, and, likewise, are themselves the Thus Come One Many Treasures. No treasure tower exist

南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり - Nam-myoho-renge-kyo is the greatest of all joys.

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本文 始めて我 心 本来の仏なりと知るを 即ち 大歓喜 と 名く 所謂 南無妙法蓮華経 は 歓喜の中の大歓喜なり はじめて わが こころ ほんらい の ほとけ なり と しる を すなわち だいかんき と なづく いわゆる なんみょうほうれんげきょう は かんき の なか の だいかんき なり 御義口伝 おんぎくでん 廿八品に一文充の大事 にじゅうはっぽんにいちもんずつのだいじ  五百品 ごひゃっぽん (788頁) 通解(意訳) 信心に懸命に励んでいき、我が生命に大きな歓喜が沸き起こった時、初めて自分自身が本来の仏なのだと知ることを、すなわち大歓喜というのである。いわゆる南無妙法蓮華経と唱えていくことは、自分自身の仏の境涯を開いていける、歓喜の中の大歓喜なのである。 英語で御書 Gosho in English Summary: This passage refers to the great joy that one experiences when one understands for the first time that one’s mind from the very beginning has been a Buddha. Nam-myoho-renge-kyo is the greatest of all joys. ==================================== The Essential Passage in Each of the Twenty-eight Chapters of the Lotus Sutra - 8. Prophecy of Enlightenment for Five Hundred Disciples "The Record of The Orally Transmitted Teachings" Part 2, p. 211 to 212 ==================================== [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 始めて 我 心 本来 の 仏 なりと 知る を 即ち 大歓喜 と 名く 所謂 南無妙法蓮華経 は 歓喜 の中 の 大歓喜 なり HAJIM

祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有り - Concerning prayer, there are conspicuous prayer and conspicuous response, conspicuous prayer and inconspicuous response, inconspicuous prayer and inconspicuous response, and inconspicuous prayer and conspicuous response.

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本文 祈祷に於ては 顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷 有りと雖も 只 肝要は此の経の信心を致し給い候はば 現当の所願満足 有る可く候 きとう に おいては けんき けんのう・けんき みょうおう・みょうき みょうおう・みょう きけんのう の きとう あり と いえども ただ かんよう は この きょう の しんじん を いたし たまい そうらわば げんとう の しょがん まんぞく ある べく そうろう 道妙禅門御書 どうみょうぜんもんごしょ [四種祈禱御書] ししゅきとうごしょ (1242頁) 建治2年8月 (1276年) 通解(意訳) 祈祷(祈り、信心)には、 顕祈顕応(けんき けんのう:目に見える信心と、何らかの形で見える功徳)、 顕祈冥応(けんき みょうおう:目に見える信心と、目に見えず、未知の間に出ている功徳)、 冥祈冥応(みょうき みょうおう:目には見えない信心と、目には見えない功徳)、 冥祈顕応(みょうき けんのう:目には見えない信心と、目に見える功徳)、 この4種類の信心と功徳の顕れがあると言えども、ただ肝心なことは、妙法の功徳は必ず顕れる事を信じ抜いて、この法華経を信心されるならば、現在及び未来の所願が満足されるであろう。 英語で御書 Gosho in English Concerning prayer, there are conspicuous prayer and conspicuous response, conspicuous prayer and inconspicuous response, inconspicuous prayer and inconspicuous response, and inconspicuous prayer and conspicuous response.  But the only essential point is that, if you believe in this sutra, all your desires will be fulfilled in both the present and the future. " Letter to the Lay Priest Dōmyō " "The Writings of Nich

天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か - The heavenly devil and evil spirits* are using illness to try to intimidate you.

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本文 人もすすめぬに 心中より信じまいらせて・上下万人に あるいは・いさめ 或は をどし候いつるに・ ついに捨つる心なくて候へば・すでに仏になるべしと見へ候へば・ 天魔・外道が病をつけて をどさんと心み候か、 命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ ひと も すすめぬ に しんちゅう より しんじ まいらせて・じょうげ ばんにん に あるいは・いさめ あるいは おどし そうらいつるに・ついに すつる こころ なくて そうらえば・すでに ほとけ に なるべし と みえ そうらえば・ てんま・げどう が やまい を つけて おどさん と こころみ そうろうか、いのち は かぎりある こと なり・すこし も おどろく こと なかれ 法華証明抄 ほっけしょうめいしょう [死活抄] しかつしょう (1586頁) 弘安5年2月 (1282年) 通解(意訳) (南条時光殿は)だれも法華経の信仰を勧めないのに、心から信仰され、地位の上下に関係なく、あらゆる人から法華経の信仰をやめるように言われても、あるいは諌められても、あるいは脅かされながらも、最終的には信心を捨てる心がなくなっておられる。そして成仏を成し遂げそうになったので、第六天魔王等の魔が、時光殿に病をつけて、信心をやめさせようと脅かしているのであろう。 命は限りがあることであり、少しも驚いてはならない。 英語で御書 Gosho in English Many people, both high and low, have admonished or threatened you, but you have refused to give up your faith. Since you now appear certain to attain Buddhahood, perhaps the heavenly devil and evil spirits* are using illness to try to intimidate you. Life in this world is limited. Never be even the least bit afraid! " The Proof of the Lotus Sutra " "The Writing

仏種は縁に従つて起る - The seeds of Buddhahood sprout as a result of conditions

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本文 其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、 仏種は縁に従つて起る 是の故に 一乗を説くなるべし その くに の ぶっぽう は きへん に まかせ たてまつり そうろうぞ、 ぶっしゅ は えん に よって おこる その ゆえに いちじょう を とく なるべし 高橋殿御返事 たかはしどのごへんじ [米穀御書] べいこくごしょ (1445頁) 年月不明 (建治~弘安が有力) (1275~78年) 通解(意訳) その国の広宣流布は、あなたにお任せする。仏種という、本来誰もが持っている仏の生命は、この妙法を誠実に語るという、妙法との縁によって起こるものである。この故に、”諸教で最も優れた法華経の法(一乗)”を説くのである。 友情と信頼の拡大 人の心は、他者との触れ合いという「縁」によって大きく変わることができる。ありのままの人間として心を開き、声をかけていくのだ。  その瞬間から、お互いの生命が、より強く、より豊かに変わり始める。 -池田大作  英語で御書 Gosho in English I entrust you with the propagation of Buddhism in your province. It is stated that “the seeds of Buddhahood sprout as a result of conditions, and for this reason they preach the single vehicle.” " Properties of Rice " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1117 The main opinion is from 1275 to 1278. [ --- ] is liberal translation. Expanding friendship and trust People's minds be able to change greatly on the fellowship with others. Open your  heart as an natural person and call out to others.  From

鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか - You demons, by making this man suffer, are you trying to swallow a sword point first

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本文 鬼神めらめ 此の人を なやますは 剣を さかさまに・のむか 又 大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか、 あなかしこ・あなかしこ、此の人の やまいを忽に なをして・かへりて まほりと なりて 鬼道の大苦を ぬくべきか  きじん めらめ この ひと を なやます は つるぎ を さかさま に・のむ か また だいか を いだくか、さんぜ じっぽう の ほとけ の だいおんてき と なるか、 あなかしこ・あなかしこ、この ひと の やまい を たちまちに なおして・かえりて まもり と なりて きどう の だいく を ぬく べきか 法華証明抄 ほっけしょうめいしょう [死活抄] しかつしょう (1587頁) 弘安5年2月 (1282年) 通解(意訳) 鬼神達め、法華経の行者である人を病気で悩ますとは、剣を逆に飲むか、または大火を抱くか、さらには三世十方の仏の大怨敵となろうとするのか。 (あなかしこ=くれぐれも、の意味あり)これを恐ろしく思うのであれば、この人の病をたちまちに冶して、かえって守護の善神となって、鬼神らこそ餓鬼道の大苦から免れるべきではないか。 英語で御書 Gosho in English You demons, by making this man suffer, are you trying to swallow a sword point first, or embrace a raging fire, or become the archenemy of the Buddhas of the ten directions in the three existences? How terrible this will be for you! Should you not cure this man’s illness immediately, act rather as his protectors, and escape from the grievous sufferings that are the lot of demons? " The Proof of the Lotus Sutra " "The Writings of Nichiren Daishonin", V

若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈に日蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや - If Nichiren is to be counted among the Bodhisattvas of the Earth, then so must his disciples and lay supporters.

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本文 地涌の菩薩のさきがけ 日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや 入りなまし、 若し日蓮 地涌の菩薩の数に入らば 豈に 日蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや じゆの ぼさつの さきがけ にちれん いちにん なり、じゆの ぼさつの かずにもや いりなまし、 もし にちれん じゆの ぼさつの かずにいらば あに にちれんが でしだんな・じゆの るうりに あらずや 諸法実相抄 しょほうじっそうしょう (1359頁) 文永10年5月 (1273年) 通解(意訳) 地涌の菩薩の先駆けは、日蓮一人である。もしくは地涌の菩薩の数にも入っているのであろうか。 もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているのであれば、日蓮の弟子檀那達もまた地涌の菩薩であり、仲間ということになろう。 英語で御書 Gosho in English Nichiren alone took the lead in carrying out the task of the Bodhisattvas of the Earth. He may even be one of them. If Nichiren is to be counted among the Bodhisattvas of the Earth, then so must his disciples and lay supporters. " The True Aspect of All Phenomena " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 385 May, 1273. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 地涌 の 菩薩 の さきがけ 日蓮 一人 なり、地涌 の 菩薩 の 数 にもや 入りなまし、 若し 日蓮 地涌 の 菩薩 の 数 に 入らば 豈に 日蓮 が 弟子 檀那・地涌 の 流類 に 非ずや JIYU NO BOSATSU NO SAKIGAKE NICHIREN ICHININ NARI, JIYU NO BOSATSU NO KAZU NIMOYA IRINAMASHI, MOSHI NICHIREN JIYU NO BOSATSU

南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし - Nam-myoho-renge-kyo will spread for ten thousand years and more, for all eternity

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本文 日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、 此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、 是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳 にちれん が じひ こうだい ならば なんみょうほうれんげきょう は まんねん の ほか・みらい までも ながるべし、 にほんこく の いっさいしゅじょう の もうもく を ひらける くどく あり、むげんじごく の みち を ふさぎぬ、 この くどく は でんきょう・てんだい にも こえ りゅうじゅ・かしょう にも すぐれたり ごくらく ひゃくねん の しゅぎょう は えど の いちにち の くどく に およばず、しょうぞう にせんねん は まっぽう の いちじ に おとるか、 これ ひとえ に にちれん が ち の かしこき には・あらず とき の しからしむる のみ 報恩抄 ほうおんしょう (329頁)  建治2年7月 (1276年) 通解(意訳) 「南無妙法蓮華経だけが、全世界のあらゆる人々を差別なく救い、自身の仏性に目覚め、自身の妙法の力で幸せをつかむことのできる、真実の法である。この妙法を一切衆生に弘めよう」 という、日蓮の慈悲の心が広大であるならば、南無妙法蓮華経は万年という時をも越えて、未来永遠に流布するに違いない。  日本のあらゆる民衆の、暗く落ち込んでいる盲目の生命を開く功徳がある。無間地獄の道をふさいで、あらゆる苦しみの根源を断ち切るのである。 この功徳は、過去に法華経の教えを説いた日本の伝教大師、中国の天台大師も超えて、さらにはインドの竜樹菩薩、釈迦の十大弟子の一人である、迦葉尊者よりも優れているのである。 極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばない。正像二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。 これはひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではない。弘めるべき時がきたのみである。 英語で御書 Gosho in English If Nichiren's compassion is truly great and encompassing, Nam-m

8周年:百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる - The 8th anniversary :A lantern lighting up a place that has been dark for a hundred, a thousand, or ten thousand years..

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本文 この経の題目は習い読む事なくして大なる善根にて候、 悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、 水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる この きょうの だいもくは ならい よむ こと なくして だいなる ぜんこんにて そうろう、 あくにんも にょにんも ちくしょうも じごくのしゅじょうも じっかい ともに そくしんじょうぶつ と とかれて そうろうは、 みずの そこなる いしに ひの あるが ごとく ひゃくせんまんねん くらき ところにも ともしびを いれぬれば あかくなる 妙法尼御前御返事 みょうほうあまごぜんごへんじ [一句肝心事] いっくかんじんのこと (1403頁) 弘安元年7月 (1278年) 通解(意訳) 法華経の題目とは、内容を習い読み、理解して唱えるのではなくとも、大きな善根を積むことになるのである。 悪人も女人も、畜生界や地獄界の衆生も、一切衆生が等しく備えている十界と共に、題目を唱えた瞬間に即身成仏ができると説かれていることは、 水の底に沈んでいる石でも、こすれば火を発するように、また百千万年の間、闇に閉ざされていた所でも、燈火を入れれば明るくなるようなものである。 謝辞 ~ 日替わり御書 8周年記念 日替わり御書 DAILY-GOSHO を読んで頂き、本当にありがとうございます。 2015年3月16日から始めた「日替わり御書 - Daily Gosho」が、今年で8周年を迎えることができました。 一人でもいいから、御書に触れていただくお手伝いができればいいな、という思いから始めた日替わり御書ですが、おかげさまで、DAILY-GOSHOは99万アクセスを達成しました。 今後とも、「日替わり御書 - Daily Gosho」をよろしくお願いします。 2023年3月16日 日替わり御書  twitter @daily-gosho 追伸: 引き続き、北極圏と南極大陸からのアクセスをお待ちしております! 英語で御書 Gosho in English Even though one neither reads nor studies the sutra, chanting the title alone is the source of tremendous good f

信のよはきはにごるがごとし、信心の・いさぎよきはすめるがごとし - Faith that is weak is like muddy water, while faith that is brave is like clear water.

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本文 其の上は 私に計り申すに及ばず候 叶ひ叶はぬは御信心により候べし 全く日蓮がとがにあらず、 水すめば 月うつる 風ふけば 木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし 信の よはきは にごるがごとし、信心の・いさぎよきは すめるがごとし 木は道理のごとし・風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ そのうえ は わたし に ばかり もうす に およばず そうろう かない かなわぬ は ごしんじん に より そうろう べし まったく にちれん が とが に あらず、 みず すめば つき うつる かぜ ふけば き ゆるぐ ごとく・みな の みこころ は みず の ごとし しん の よわき は にごる が ごとし、しんじん の・いさぎ よき は すめる が ごとし きは どうりの ごとし・かぜの ゆるがすは きょうもんを よむが ごとしと・おぼしめせ 日厳尼御前御返事 にちごんあまごぜんごへんじ (1262頁) 弘安3年10月 (1280年) 通解(意訳) 信心の功徳について、これを自分勝手の解釈で御本尊の功徳を推し量ってはならない。 日蓮が、あなたの願いをいくら祈ったところで、願いが叶うか叶わないかは、結局は全てあなたの御信心によるものであり、全く日蓮のせいではない。 例えば、水が澄めば月はきれいに映り、風が吹けば木の枝が揺れるように、人の心は水のようなものである。 信人が弱いのは、水が濁っているようなものであり、信心が強く潔いのは、水が澄んでいるようなものである。 木は仏法の道理のようなものであり、風がその木を揺り動かすことは、朝夕の勤行・唱題を怠らず、信心を深めていく努力と、現実と向き合って、願いが成就するよう努力をする事である。 「題目をあげていればなんとかなる」と、自分が努力する事を怠れば、せっかく諸天が動いたとしても、願いは成就しない。 自分の信心を深め、行学を実践していきなさい。 仏法の道理である「南無妙法蓮華経」の御本尊を揺り動かすような実践の信心と同時に、現実を変えようとする努力をするところに、御本尊の功徳が顕れるのだと、しっかり心得ていきなさい。  英語で御書 Gosho in English Now there is no need to attempt to surmise yourself how things wil

餓鬼は恒河を火と見る - Hungry spirits perceive the Ganges River as fire

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本文 此の経の文字は 皆悉く 生身妙覚の御仏なり 然れども 我等は肉眼なれば文字と見るなり、 例せば 餓鬼は恒河を火と見る 人は水と見る 天人は甘露と見る 水は一なれども 果報に随つて別別なり この きょうの もじは みな ことごとく しょうじんみょうかくの みほとけ なり しかれども われらは にくがん なれば もじと みる なり、 れいせば がきは ごうかを ひ と みる ひとは みず と みる てんにん は かんろ と みる みず は いち なれども かほうに したがって べつべつ なり 曾谷入道殿御返事 そやにゅうどうどのごへんじ (1025頁) 文永12年3月 (1275) 通解(意訳) この法華経の文字は、一字一字のすべてがことごとく、生身の釈迦仏と同じであり、そのまま自身の仏性と同じなのである。しかしながら、我等は凡夫の肉眼なので、ただの文字だと見るのである。 例えば、餓鬼界の境涯の者は恒河(ガンジス河)を火と見て恐れる。人界の境涯の者は水と見る。天界の境涯の者は甘露と見る。 水は同じひとつのものであるけれども、見る者の境涯の違いによって、見え方は別々なのである 英語で御書 Gosho in English The characters of this Sutra are all without exception living Buddhas of perfect enlightenment. But because we have the eyes of ordinary people, we see them as characters. For instance, hungry spirits perceive the Ganges River as fire, human beings perceive it as water, and heavenly beings perceive it as amrita. Though the water is the same, it appears differently according to one’s karmic reward from the past.  " Reply to the Lay Priest Soya " "The

始より終りまで弥信心をいたすべし - Be diligent in developing your faith until the last moment of your life.

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本文 弥 はげませ給うべし 懈ることなかれ、 皆 人の此の経を信じ始むる時は 信心有る様に見え候が・中程は 信心も よはく 僧をも恭敬せず 供養をも なさず・自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、 始より終りまで 弥 信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん いよいよ はげませ たもうべし おこたる こと なかれ、 みな ひとの この きょうを しんじはじむる ときは しんじん あるように みえ そうろうが・なかほどは しんじんも よわく そう をも きょうけいせず くようも なさず・じまんして あっけんを なす、これ おそるべし おそるべし、 はじまりより おわりまで いよいよ しんじんを いたすべし・さなくして こうかいや あらんずらん 新池御書 にいけごしょ (1440頁)  弘安3年2月 (1280年) 通解(意訳) さらに信心に励んでいき、怠ることがあってはならない。 皆、人がこの法華経を信じはじめる時は、信心がある様に見えるが、時が経って信心が深まる途中になると、信心も弱まり、僧侶(信心の先輩、同志)も敬うこともせず、御本尊へのご供養や、困った同志を助ける心も忘れ、慢心を起こして邪悪な考えを起こしてしまうものである。 これは大変に恐るべきことである。 始めから終りまで、いよいよ信心を深めて貫くべきである。そうでなければ後悔するであろう。 英語で御書 Gosho in English Strive ever harder in faith, and never give in to negligence. All the people appear to believe sincerely when they first embrace the Lotus Sutra, but as time passes, they tend to become less devout; they no longer revere or make offerings to the priest, giving themselves up to arrogance and forming distorted views.  This is most frightening. Be diligent in develop