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難来るを以て安楽と意得可きなり - Difficulties will arise, and these are to be looked on as “peaceful” practices.

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本文 末法に於て今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり まっぽうに おいて いま にちれんらの たぐいの しゅぎょうは みょうほうれんげきょうを しゅぎょうするに なん きたるを もって あんらくと こころうべきなり 御義口伝 おんぎくでん  安楽行品 五箇の大事 あんらくぎょうぼん ごかのだいじ 第一 安楽行品の事 だいいち あんらくぎょうぼんのこと (750頁) 通解(意訳) 末法において、日蓮とその門下の修行とは、南無妙法蓮華経の題目を自分も唱え、他人にも妙法の素晴らしさを語り、題目を勧めていく「折伏行」であり、仏法対話である。 この折伏行の時に、様々な難が競い起きてくることで、自己の境涯を高めるための試練であり、これを乗り越える事で自己が鍛えられ、何事にも動じない「安楽な境涯を得る事ができる」と心得るべきである。  英語で御書 Gosho in English Concerning the “peaceful” practices of the Lotus Sutra of the Wonderful Law and the practices carried out by Nichiren and his followers now in the Latter Day of the Law, you should understand that, when one practices the Lotus Sutra under such circumstances, difficulties will arise, and these are to be looked on as “peaceful” practices. ==================================== Peaceful Practices Five important points Point One, concerning the “Peaceful Practices” chapter. "The Record of The Orally Transmitted Teachings" Part 1, 115 ==================================== [

つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ - Think of this offering as a drop of dew rejoining the ocean, or a speck of dust returning to the earth.

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本文 願くは我が弟子等・大願を をこせ、去年 去去年(こぞ おととし)の やくびやうに 死にし 人人の・かずにも入らず、又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしとも みへず、 とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、 をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海に あつらへ・ちりを大地に うづむと をもへ ねがわくは わが でし ら・だいがん を おこせ、こぞ おととし の やくびょう に しに し ひとびと の・かず にも いらず、また とうじ・もうこ の せめ に・まぬかるべし とも みえず、 とにかく に し は いちじょう なり、そのときの なげき は とうじ の ごとし、 おなじく は・かり にも ほけきょう の ゆえ に いのち を すてよ、つゆ を たいかい に あつらえ・ちり を だいち に うずむ と おもえ 上野殿御返事 うえのどのごへんじ [竜門御書] りゅうもんごしょ 1561頁 弘安2年11月 (1279年) 通解(意訳) 願わくは、我が弟子たちは広宣流布という大願を起こしなさい。 去年や一作年に起こった疫病で死んだ人々の数には入らなかったにしても、現在、蒙古(モンゴル帝国)が攻めてきた時に、死を免れることができるとは思えない。 とにかく、どんな形であれ、人の死というものは、いずれ皆に平等に訪れるものであり、决定した(けつじょう した、決まった)事である。その時の嘆きや苦しみは、死の間際では全く同じ苦しみなのである。 同じ死を迎える事が決定しているのであれば、「もしかしたら、自分の命は明日には無いかもしれない」と思い切って、法華経のために命を捨てなさい。 これこそ、露のような小さな生命を、法華経という大海に入れるように、また塵が妙法という大地に埋める事だと思いなさい。 法華経のために命を捨てるということは、今世においては、最高に幸福な人生を送ることができ、最期にはまた、法華経の行者として誉れ高い死を迎えることができる。そして来世に於いてもまた法華経に縁して、法華経の行者として生まれてくることができるのである。 英語で御書 Gosho in English My wish is that all my disciples make a great vow. We are very fortunate

毒薬変じて薬となり - As poison turns into medicine

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本文 毒薬変じて薬となり衆生変じて仏となる故に妙法と申す どくやくへんじてくすりとなりしゅじょうへんじてほとけとなるゆえにみょうほうともうす 新池殿御消息 にいけどのごしょうそく [法華経随自意事] ほけきょうずいじいのこと (1437頁) 弘安2年5月2日  (1279年) 通解(意訳) 毒薬が変じて薬となり、衆生が変じて仏となる。ゆえに妙法というのである。 英語で御書 Gosho in English Just as poison turns into medicine, so do ordinary individuals change into Buddhas. Accordingly we call it the wonderful Law. " The Teaching That Accords with the Buddha’s Mind " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 969 in May 2, 1279. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 毒薬変じて薬となり衆生変じて仏となる故に妙法と申す DOKUYAKU HENJITE KUSURI TO NARI SHUJŌ HENJITE HOTOKE TO NARU YUE NI MYOHO TO MŌSU 新池殿御消息 NIIKE-DONO GOSHŌSOKU [法華経随自意事] HOKEKYO ZUI-JII-NO-KOTO 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ - No matter what may happen, you must not slacken in the least.

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本文 いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ命に及ぶともすこしも・ひるむ事なかれ いかなる こと ありとも・すこし も たゆむ こと なかれ、いよいよ・はりあげて せしむべし、たとい いのち に およぶ とも すこしも・ひるむ こと なかれ 兵衛志殿御返事 ひょうえのさかんどのごへんじ [鎌足造仏事] かまたりぞうぶつじ (1091頁) 建治元年8月 (1275年) 通解(意訳) いかなる事があろうとも、少しも信心が弛んではならない。いよいよ声を張り上げて正義を語り、強く謗法を責めていきなさい。たとえ命に及ぶことがあっても、少しも怯んではならない。 英語で御書 Gosho in English No matter what may happen, you must not slacken in the least. You must raise your voice all the more and admonish [those who slander]. Even if your life should be threatened, you must not falter in the least. " Kamatari Suggests the Fashioning of a Buddha Image "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.2, p. 597 in August, 1275. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese いかなる 事 ありとも・すこし も たゆむ 事 なかれ、 いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ 命 に 及ぶ とも すこしも・ひるむ 事 なかれ IKANARU KOTO ARITOMO・SUKOSHI MO TAYUMU KOTO NAKARE, IYOIYO・HARIAGETE SESHIMU BESHI,  TATOI INOCHI NI OYOBU TOMO SUKOSHI MO・HIRUMU KOTO NAKARE 兵衛志 殿 御返事 HYO-E

信心と申すは別にはこれなく候 - What is called faith is nothing unusual.

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本文 信心と申すは 別には これなく候、 妻の をとこを おしむが如く をとこの 妻に命を すつるが如く、親の子を すてざるが如く・子の母に はなれざるが如くに、 法華経 釈迦 多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へ たてまつるを 信心とは申し候なり しんじん と もうす は べつ には これ なく そうろう、 つま の おとこ を おしむ が ごとく おとこ の つま に いのち を すつる が ごとく、おや の こ を すてざる が ごとく・こ の はは に はなれざる が ごとく に、 ほけきょう しゃか たほう・じっぽう の しょ ぶつ ぼさつ・しょてん ぜんじん とう に しん を いれ たてまつりて なんみょうほうれんげきょう と となへ たてまつる を しんじん とは もうし そうろう なり 妙一尼御前御返事 みょういちあまごぜんごへんじ [信心本義事] しんじんほんぎじ (1255頁) 弘安3年5月 (1280年) 通解(意訳) 信心というのは、特別にこれというものではない。 妻が夫を想い慕うように、また夫が妻の為なら命をすてるように、親が子を捨てないように、子供が母親から離れないように、信心というのは、本能的な慈愛の行動と同じ事なのである。 法華経・釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・諸天善神が住まわれている、あなたの身心に備わっている仏界を書き顕した御本尊を信じきって、自他共の幸福を願う慈愛の心で、南無妙法蓮華経の題目を唱え奉ることを、信心というのである。 御本尊に祈る行為、それ自体が尊い 「雑念がわいたってかまわない。人間だから当然でしょう。そのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばいいんです。・・・そういう雑念でさえも、題目によって、功徳に変わるのです。」 ‐池田大作 英語で御書 Gosho in English What is called faith is nothing unusual. Faith means putting one’s trust in the Lotus Sutra, Shakyamuni, Many Treasures, the Buddhas and bodhisattvas of the ten di

後生のたのもしさ申すばかりなし - No words can express the promise of your next existence.

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本文 各各は二人は・すでにとこそ人は み しかども・かく いみじく みへさせ 給うは・ひとえに釈迦仏・法華経の御力なりと・をぼすらむ、 又 此れにも をもひ候、後生の たのもしさ 申すばかりなし、 此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ命に及ぶとも すこしも・ひるむ事なかれ おのおの は ふたり は・すでに と こそ ひとは み しかども・かく いみじく みえさせ たもう は・ひとえ に しゃかぶつ・ほけきょう の おんちから なり と・おぼすらむ、 また これにも おもい そうろう、ごしょう の たのもしさ もうす ばかり なし、 これより のち も・いかなる こと ありとも・すこし も たゆむ こと なかれ、いよいよ・はりあげて せしむべし、たとい いのち に およぶ とも すこしも・ひるむ こと なかれ 兵衛志殿御返事 ひょうえのさかんどのごへんじ [鎌足造仏事] かまたりぞうぶつじ (1089頁) 建治元年8月 (1275年) 通解(意訳) あなた方は、世間の人々から二人(池上兄弟)は、とっくに信心を捨てたと見ていたのに、このように立派に信心を全うしてこられたのは、ひとえに釈迦仏・法華経の御力であると思っておられることであろう。 日蓮もそう思っている。後世の頼もしさは言葉では言い表すことができない。 これからも、いかなる事があろうとも、少しも信心が弛んではならない。いよいよ声を張り上げて正義を語り、強く謗法を責めていきなさい。たとえ命に及ぶことがあっても、少しも怯んではならない。 英語で御書 Gosho in English People have regarded the two of you as surely having already yielded, but you have acted in an admirable manner. You probably think this is solely due to the power of Shakyamuni Buddha and the Lotus Sutra. I believe this also. No words can express the promise of your next existence. From

然どもいまだこりず候 - But still I am not discouraged.

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本文 此法門を日蓮申す 故に 忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ 命にも及びしなり、然どもいまだこりず候 法華経は種の如く 仏はうへての如く 衆生は田の如くなり この ほうもん を にちれん もうす ゆえ に ちゅうげん みみ に さからう どうり なる が ゆえに るざい せられ いのち にも およびし なり、しかれども いまだ こりず そうろう、 ほけきょう は たね の ごとく ほとけ は うえて の ごとく しゅじょう は た の ごとく なり 曾谷殿御返事 そやどのごへんじ [成仏用心抄] じょうぶつようじんしょう (1056頁) 建治2年8月 (1276年) 通解(意訳) 法華経の法門を日蓮が申すゆえに、忠告は耳障りに聞こえるのが人間の道理でもあるから、流罪にされたり、命にも及んだのである。しかしながら、私はいまだに懲りていない。 法華経は種のようであり、仏は植え手のようであり、衆生は田のようである。 英語で御書 Gosho in English I have expounded this teaching [ of The Lotus Sutra ], I have been exiled and almost killed. As the saying goes, “Good advice grates on the ear.” But still I am not discouraged. The Lotus Sutra is like the seed, the Buddha like the sower, and the people like the field. " The Essentials for Attaining Buddhahood " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 748 in August, 1276. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 此 法門 を 日蓮 申す 故に 忠言 耳 に 逆う 道理 なる が 故 に 流罪 せられ 命 にも 及びし なり、 然ども いまだ こりず 候 法華経 は 種 の 如く 仏 は うへて の 如く 衆生 は

命限り有り惜む可からず - Life is limited; we must not begrudge it.

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本文 流罪の事 痛く歎せ給ふべからず、 勧持品に云く不軽品に云く、命限り有り 惜む可からず 遂に願う可きは仏国也 るざい の こと いたく なげかせ たもう べからず、かんじぼん に いわく ふきょうぼん に いわく、 いのち かぎり あり おしむ べからず つい に ねがう べき は ぶっこく なり 富木入道殿御返事 ときにゅうどうどのごへんじ [願望仏国事] がんぼうぶっこくじ (955~956頁) 文永8年11月 (1271年) 通解(意訳) 日蓮の佐渡流罪のことは、決して嘆いてはならない。勧持品や不軽品にあるとおり、大難にあうのは法華経の行者の証拠だからである。 命は限りあるものであるから、今世の人生を法華経のために使い、惜しんではならない。最終的に願うべきは、現実社会を幸福な仏国土へと変える事を実現する事である。 英語で御書 Gosho in English You absolutely must not lament over my exile. It says in the “Encouraging Devotion” chapter and in the “Never Disparaging” chapter [that the votary of the Lotus Sutra will meet with persecution]. Life is limited; we must not begrudge it. What we should ultimately aspire to is the Buddha land. " Aspiration for the Buddha Land " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 213 in November, 1271. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  If you have face to the hardships by the faith,  that is an evidence for the behavior of the Lotus Sutra. The ul

他人なれどもかたらひぬれば命にも替るぞかし - Even a stranger, if you open up your heart to him, may be willing to lay down his life for you.

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本文 他人なれども かたらひぬれば 命にも替るぞかし たにんなれども 語合 ぬれば いのちにも かわるぞかし 呵責謗法滅罪抄 かしゃくほうぼうめつざいしょう (1132頁) 文永10年 (1273年) 通解(意訳) 他人であっても、心から語り合えば、かけがえのない命にも替わりうるのである。 英語で御書 Gosho in English Even a stranger, if you open up your heart to him, may be willing to lay down his life for you. " On Rebuking Slander of the Law and Eradicating Sins " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 435 in 1273. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 他人なれども かたらひぬれば 命にも替るぞかし TANIN NAREDOMO KATARAI NUREBA INOCHI NIMO KAWARU ZOKASHI 呵責 謗法 滅罪 抄 KASHAKU HŌBŌ METSUZAI SHŌ 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

命をば三千大千世界にても買はぬ物にて候 - Life is something that cannot be purchased even for the price of an entire major world system.

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本文 命をば三千大千世界にても買はぬ物にて候と仏は説かせ給へり、 米は命を継ぐ物なり 譬えば米は油の如く 命は燈の如し、 法華経は燈の如く 行者は油の如し いのち をば さんぜんだいせんせかい にても かわぬ もの にて そうろう と ほとけ は とかせ たまえり、 こめ は いのち を つぐ もの なり たとえば こめ は あぶら の ごとく いのち は ともしび の ごとし ほけきょう は ともしび の ごとく ぎょうじゃ は あぶら の ごとし 曾谷殿御返事 そやどのごへんじ [輪陀王御書] りんだおうごしょ (1059頁) 弘安2年8月 (1279年) 通解(意訳) 命というものは、全宇宙の財宝をもってしても買うことができないものであると、仏は説かれている。 (ご供養として頂いた)米は、命を継ぐものである。譬えていえば、米は油で、命は燈火のようなものであり、命という燈火が途切れないように、お米という油を足すのである。 これと同じように、法華経は燈火であり、法華経の行者は油のようなものである。法華経の行者という油がなければ、法華経という教えは途絶えてしまうのである。 英語で御書 Gosho in English Buddha says that life is something that cannot be purchased even for the price of an entire major world system. Rice is what sustains life. It is like the oil that sustains the life of the lamp. The Lotus Sutra is a lamp, and its votary is the oil that sustains it.  " King Rinda " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 983 in August, 1279. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal trans

偏に四大菩薩を出現せしむ可き先兆なるか - They must foretell the appearance of the four great bodhisattvas.

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本文 正像に無き大地震・大彗星等 出来す、此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず 偏に四大菩薩を出現せしむ可き 先兆なるか、 天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り 花の盛なるを見て池の深きことを知る」等云云、妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、 天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか しょうぞうに なき おおじしん・だいすいせいとう しゅったいす、これらは こんじちょう・しゅら・りゅうじんとうの どうへんに あらず ひとえに しだいぼさつを しゅつげん せしむべき せんちょう なるか、 てんだいいわく「あめの たけきをみて りゅうの だいなるをしり はなの さかんなるを みて いけの ふかきことを しる」とう うんぬん、みょうらくたいし いわく「ちじんは きを しり へびは みずから へびを しる」とう うんぬん、 てん はれぬれば ち あきらかなり ほっけを しるものは せほうを うべきか 観心本尊抄 かんじんのほんぞんしょう [如来滅後五五百歳始観心本尊抄] にょらいめつご ご ごひゃくさい に はじむ かんじん の ほんぞんしょう [法本尊開顕の書] ほうほんぞんかいけんのしょ (246頁) 文永10年4月 (1272年) (254頁) 文永10年4月 正法・像法時代には起きなかった大地震・大彗星等の天変地異が、近年立て続けに出来している。これらは金翅鳥・阿修羅・竜神等が起こす動変ではない。ひとえに地涌の菩薩のリーダーである、上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の四菩薩が出現すべき先兆であろう。 天台大師は「雨が猛々しく降る現証を見て、雨を降らせる言われている、竜の力の偉大なることを知り、蓮華の花が大きく咲き盛なっている様子を見て、その池の深いことを知る」等と言い、妙楽大師は「智人は将来起こるべきことを知り、蛇は自ら蛇の本質を知っている」等と言っている。 天が晴れるならば、大地は明るくなる。太陽の光に従って大地が明るくなるように、法華経を識る者は、今の世間の本質(世法)を明らかに知り得られるであろう。 英語で御書 Gosho in English We have recently experienced great earthquakes, huge comets, and oth

をとこのしわざはめのちからなり - the strength of the wife that guides the actions of her husband.

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本文 やの はしる事は 弓のちから・くもの ゆくことは りうの ちから、をとこの しわざは め の ちからなり や の はしる こと は ゆみ の ちから・くも の ゆく こと は りゅう の ちから、おとこ の しわざ は め の ちから なり 富木尼御前御返事 ときあまごぜんごへんじ [弓箭御書] ゆみやごしょ (975頁) 建治2年3月 (1276年) 通解(意訳) 矢が飛ぶのは弓の力のおかげであり、雲が流れるのは竜の力のおかげである。 同じように、夫(男性)の振舞いは妻(女性)の力であり、内助の功のおかげなのである。 英語で御書 Gosho in English It is the power of the bow that determines the flight of the arrow, the might of the dragon that controls the movement of the clouds, and the strength of the wife that guides the actions of her husband. " The Bow and Arrow " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 656 in March, 1276. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese やの はしる事は 弓のちから・くもの ゆくことは りうの ちから、をとこの しわざは め の ちからなり YA NO HASHIRU KOTO WA YUMI NO CHIKARA・KUMO NO YUKU KOTO WA RYU NO CHIKARA, OTOKO NO SHIWAZA WA ME NO CHIKARA NARI 富木尼御前御返事 TOKI AMA GOZEN GOHENJI [弓箭御書] YUMI YA GOSHO 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "

金珠女 - The Woman Who Gave a Piece of Gold

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本文 金珠女は金銭一文を木像の薄と為し 九十一劫金色の身と為りき 其の夫の金師は今の迦葉 未来の光明如来是なり こんじゅにょ は きんせん いちもん を もくぞう の はく と なし きゅうじゅういっこう こんじき の み と なりき その おとこ の こんし は いま の かしょう みらい の こうみょうにょらい これ なり 乗明聖人御返事 じょうみょうしょうにんごへんじ [金珠女御書] こんじゅにょごしょ (1012頁) 建治3年4月   (1277年) 通解(意訳) 金珠女は、金箔を施した木像の顔の一部が剥がれていたのを見て、貧相な身でありながら、物乞いをして集めた黄金の銭一文を供養し、錬金師であった夫は、その黄金を使って木造を修復した。この功徳によって、金珠女は91劫(1劫 =人間界での43億2千万年)の長い間、金色の身となった。その夫の鍛金師は釈尊在世の時代には迦葉尊者であり、未来の光明如来である。さらに、二人は生まれ変わっても常に夫婦として結ばれていたのである。 例えわずかであっても、心から法華経に供養すれば、莫大な功徳が必ず顕れるのである。 英語で御書 Gosho in English Long ago, the so-called Woman Who Gave a Piece of Gold donated a gold coin to be used to gild a wooden statue [of a Buddha. Because of the benefits she received], for ninety-one long kalpas she was reborn with a golden body. The goldsmith at that time, who became her husband, was reborn as Mahākāshyapa, who in the future, the Buddha predicted, will become a Buddha named Light Bright Thus Come One. " The Woman Who Gave a Piece of Gold "  "The Writings of Nichire

夫れ仏法と申すは勝負をさきとし - Buddhism primarily concerns itself with victory or defeat

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本文 夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、 故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり それ ぶっぽう と もうす は しょうぶ を さき とし、おうほう と もうす は しょうばつ を もと と せり、 ゆえ に ほとけ をば せおう と ごう し おう をば じざい と なづけたり 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ [世雄御書] せおうごしょ (1165頁) 建治3年 (1277年) 通解(意訳) そもそも仏法というものは勝負を第一とし、王法というものは賞罰を根本としている。 故に、仏を世雄と号し、王を自在と名づけるのである。 英語で御書 Gosho in English Buddhism primarily concerns itself with victory or defeat, while secular authority is based on the principle of reward and punishment. For this reason, a Buddha is looked up to as the Hero of the World, while a king is called the one who rules at his will.  " The Hero of the World " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 835 in 1277. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、 故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり SORE BUP'PŌ TO MŌSU WA SHŌBU WO SAKI TOSHI, Ō-HŌ TO MŌSU WA SHŌ-BATSU WO MOTO TO SERI, YUE NI HOTOKE WOBA SEŌ TO GOU SHI Ō WOBA JIZAI TO NAZUKETARI 四条金吾殿御返事 SHIJŌ KINGO DONO GOHENJI [世雄御書] SE-Ō GOSHO 参

法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす - The Lotus Sutra is like the lion king, who rules over all other animals.

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本文 法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす、法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし ほけきょうはししおうのごとしいっさいのけもののいただきとす、 ほけきょうのししおうをたもつにょにんはいっさいのじごく・がき・ちくしょうとうのひゃくじゅうにおそるることなし 千日尼御前御返事 せんにちあまごぜんごへんじ [雷門鼓御書] らいもんのつづみごしょ (1316頁) 弘安元年10月 (1278年) 通解(意訳) 法華経は師子王と同じである。一切の獣の頂点に立っているものである。 法華経という師子王の心を持つ女性は、一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣を恐れる必要はないのである。 英語で御書 Gosho in English The Lotus Sutra is like the lion king, who rules over all other animals. A woman who embraces the lion king of the Lotus Sutra never fears any of the beasts of hell or of the realms of hungry spirits and animals.  " The Drum at the Gate of Thunder " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 949 in October, 1278. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす、法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし ほけきょうはししおうのごとしいっさいのけもののいただきとす、 ほけきょうのししおうをたもつにょにんはいっさいのじごく・がき・ちくしょうとうのひゃくじゅうにおそるることなし HOKEKYO WA SHISHI-Ō NO GOTOSHI IS'SAI NO KEMONO NO ITADAKI TO SU, HOKEKYO NO SHISHI-Ō WO TAMOTSU NYONIN WA IS'SAI NO JIGOKU

心の師とはなるとも心を師とすべからず - one should become the master of one’s mind rather than let one’s mind master oneself.

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本文 相構へ相構へて 心の師とはなるとも 心を師とすべからず と 仏は記し給ひしなり、 法華経の御為に 身をも捨て 命をも惜まざれ と 強盛に申せしは 是なり あいかまえ あいかまえて こころ の し とは なる とも こころ を し と すべからず と ほとけ は しるし たまいし なり、 ほけきょう の おん ために み をも すて いのち をも おしまざれ と ごうじょう に もうせし はこれなり 義浄房御書 ぎじょうぼうごしょ [己心仏界抄] こしんぶっかいしょう (892頁) 文永10年5月 (1273年) 通解(意訳) よくよく心して、揺らぎやすい自身の心を、師匠の教え通りに自身の心とはしても、自分のわがままな心や臆病な心など、自分の心を師匠としてはならない、と釈尊は経文に記されている。 「法華経のためには身をも捨て、命をも惜しまないように」と強盛に教えてきたのは、このことである。 この師匠の教えの通りに実践するのが本当の弟子であり、本当の師弟である。 英語で御書 Gosho in English The Buddha wrote that one should become the master of one’s mind rather than let one’s mind master oneself. This is what I mean when I emphatically urge you to give up even your body, and never begrudge even your life for the sake of the Lotus Sutra. " Letter to Gijō-bō " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 390 in May, 1273. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 相構へ 相構へて 心 の 師 とは なるとも 心 を 師 と すべからず と 仏 は 記し 給ひし なり、 法華経 の 御為 に 身 をも 捨て 命 をも 惜まざれ と 強盛 に 申せし は 是 なり AI KAMAE  AI K

此の度仏法を心みよ - Test the truth of Buddhism now!

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本文 我が 弟子等 心みに 法華経の ごとく 身命も おしまず 修行して 此の度 仏法を 心みよ わが でしら こころみに ほけきょうの ごとく しんみょうも おしまず しゅぎょうして このたび ぶっぽうを こころみよ 撰時抄 せんじしょう (287頁) 建治元年4月 (1275年) 通解(意訳) 我が弟子達よ、試みに法華経のとおり身命もおしまず修行して、このたび仏法を試してみなさい。 英語で御書 Gosho in English I say to you, my disciples, try practicing as the Lotus Sutra teaches, exerting yourselves without begrudging your lives! Test the truth of Buddhism now! " The Selection of the Time " "The Writings of Nichiren Daishonin",  Vol.1, p. 583 - 584 in April, 1275. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 我が 弟子等 心み に 法華経 の ごとく 身命 も おしまず 修行 して 此の 度 仏法 を 心みよ WAGA DESHI-RA KOKOROMI NI HOKEKYO NO GOTOKU SHIN-MYŌ MO OSHIMAZU SHUGYŌ SHITE KONO TABI BUP'PŌ WO KOKOROMIYO 撰時 抄 SENJI SHŌ 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

何として都の月をば詠め候べき - How can you admire the moon over the capital?

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本文 鎌倉より京へは十二日の道なり、 それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩を さしをきては何として都の月をば詠め候べき かまくら より きょう へ は じゅうに にち の みち なり、それを じゅういちにち あまり あゆみ を はこびて いま いちにち に なりて あゆみ を さしをきて は なんとして みやこ の つき をば ながめ そうろう べき 新池御書 にいけごしょ (1440頁)  弘安3年2月 (1280年) 通解(意訳) 鎌倉から京都へは12日の道のりである。 それを11日ほど歩いて、あと1日になって歩くのをやめてしまったら、どうして都の月をながめることができようか。 同じように、信心を始めたとしても、途中で信心をやめて退転してしまえば、成仏への直道を閉ざすばかりか、謗法という大罪を犯す事になるのである。 英語で御書 Gosho in English The journey from Kamakura to Kyoto takes twelve days.  If you travel for eleven but stop with only one day remaining, how can you admire the moon over the capital? " Letter to Niike " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1027 in February, 1280. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  The faith also the same. When you have stop the faith on the way even if you started the faith, it will be to commit the sin which slanders the Lotus Sutra [Nichiren Buddhism], as well as closing the way to attainment the Bu

九識心王真如の都 - The body is the palace of the ninth consciousness

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本文 此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只 我れ等 衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団に おはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり この ごほんぞん まったく よそ に もとむる こと なかれ・ただ われら しゅじょう の ほけきょう を たもちて なんみょうほうれんげきょう と となうる きょうちゅう の にくだん に おわします なり、これ を く しき しん のう しん にょ の みやこ とは もうすなり 日女御前御返事 にちにょごぜんごへんじ [御本尊相貌抄] ごほんぞんそうみょうしょう (1244頁) 建治3年8月 (1277年) 通解(意訳) この御本尊を決して別の所に求めてはならない。ただ、われわれ衆生が法華経を信受して、南無妙法蓮華経と唱える、自身の胸中の肉団にいらっしゃるのである。これを「九識心王真如の都」(自身の奥底にある、絶対的幸福の生命の都)というのである。 英語で御書 Gosho in English Never seek this Gohonzon outside yourself. The Gohonzon exists only within the mortal flesh of us ordinary people who embrace the Lotus Sutra and chant Nam-myoho-renge-kyo. The body is the palace of the ninth consciousness, the unchanging reality that reigns over all of life’s functions. " The Real Aspect of the Gohonzon " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 821 in August, 1277. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 此の 御本尊 全く 余所 に 求る 事 なかれ・只 我れ等 衆生 の 法華経 を 持ちて 南無妙法蓮華経 と 唱うる

南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしや - You asked whether one can attain Buddhahood only by chanting Nam-myoho-renge-kyo

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本文 南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候、然れども同じ一句の中にも肝心にて候、 南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候・一部の肝要八軸の骨髄にて候。 人の身の五尺・六尺のたましひも一尺の面にあらはれ・一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候、 又日本と申す二の文字に六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍万宝・一もかくる事候はず収めて候、 其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字・一字ももれず・かけずおさめて候 なんみょうほうれんげきょうと もうす は これ いちぐ いっけ にて そうろう、しかれども おなじ いっく の なか にも かんじん にて そうろう、 なんみょうほうれんげきょう と となうる ばかり にて ほとけ に なるべしや と、この ごふしん しょせん に そうろう・いちぶ の かんよう はちじく の こつずい にて そうろう。 ひと の みの ごしゃく・ろくしゃく の たましい も いっしゃく の おもて に あらわれ・いっしゃく の かお の たましい も いっすん の め の うち に おさまり そうろう、 また にほん と もうす に の もじ に ろくじゅう ろく か こく の じんちく・た はた・じょうげ・きせん・しちちん まんぽう・ひとつ も かくる こと そうらわず おさめて そうろう、 その ごとく なんみょうほうれんげきょう の だいもく の うち には いちぶ はちかん・にじゅう はちほん・ろくまん きゅうせん さんびゃく はちじゅう よん の もじ・いちじ も もれず・かけず おさめて そうろう 妙法尼御前御返事 みょうほうあまごぜんごへんじ [一句肝心事] いっくかんじんのこと (1402頁) 弘安元年7月 (1278年) 通解(意訳) 南無妙法蓮華経というのは、法華経のうちのたった一句一偈である。しかしながら、同じ法華経の一句の中でも、最も肝心の一句である。 南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏になることができるのかとのご質問であるが、このご質問こそ最も大切なことである。法華経一部の肝要であり、八巻の骨髄なのである。 人の身は五尺・六尺(約150cm~180cm)であっても、魂はその一尺(約30cm)の表面に現われ、一尺の顔に現われている魂も、