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ちかいし願やぶるべからず - This is my vow, and I will never forsake it

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本文 大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、 其の外の大難・風の前の塵なるべし、 我 日本の柱とならむ 我 日本の眼目とならむ 我 日本の大船とならむ等 と ちかいし願やぶるべからず。 だいがん を たてん にほんこく の くらい を ゆずらん、ほけきょう を すてて かんきょうとう に ついて ごしょう を ごせよ、ふぼ の くび を はねん ねんぶつ もうさずば、なんど の しゅじゅ の だいなん・しゅったい す とも ちしゃ に わが ぎ やぶられずば もちいじ と なり、 そのほか の だいなん・かぜ の まえ の ちり なるべし、 われ にほん の はしら と ならん、われ にほん の がんもく と ならん われ にほん の たいせん と ならん とう と ちかいし ねがい やぶる べからず。 開目抄・下  かいもくしょう・げ [人本尊開顕書] [人本尊開顕の書] にんほんぞんかいけんのしょ (232頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) いまこそ大願を立てよう。法華経をすてて観経等の信仰に入り、後生の極楽往生を願うならば、日本国の位を譲ろうとの誘惑があろうとも、また念仏を申さないならば、父母の首を斬りはねるとの脅迫があろうとも、またその他の種々な大難が出来しようとも、智者に日蓮の教義が破られない限り、絶対に他の教義にはしたがうことはない。 この智者にわが義をやぶられる以外の大難は、風の前の塵のごとき問題にならない事件である。 日本国の一切衆生を救うために、われは日本の柱となろう、われは日本の眼目となろう、われは日本の大船となろう等と誓い願った事は、絶対に破ることがないのである。 英語で御書 Gosho in English Here I will make a great vow. Though I might be offered the rulership of Japan if I would only abandon the Lotus Sutra, accept the teachings of the Meditation Sutra, and look forward to r

悪象の為に殺されては三趣に至らず - Even if you are killed by a mad elephant, you will not fall into the three evil paths.

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本文 菩薩 悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ 悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ・ 悪象の為に殺されては三趣に至らず 悪友の為に殺されては必ず三趣に至る ぼさつ あくぞうら に おいて は こころ に きょうふ する こと なかれ あくちしき に おいて は ふい の こころ を しょうぜよ・ あくぞう の ため に ころされて は さんしゅ に いたらず あくゆう の ため に ころされては かならず さんしゅ に いたる 立正安国論 りっしょうあんこくろん (17頁) 文応元年七月 (1260年) 通解(意訳) 地涌の菩薩たちよ、狂暴な悪象等に対しては心に恐怖心を抱く必要はない。正法を信じていこうとする人の心を迷わす者(悪知識)に対しては、恐れる心を起こす必要がある。 その理由は、悪象に殺されても、地獄・餓鬼・畜生の三悪道(十界論の内、最下位の三界)におちることはないが、悪友に惑わされ、正法を信ずる心を殺されたならば、必ず三悪道におちるからである。 英語で御書 Gosho in English Bodhisattvas , have no fear of mad elephants. What you should fear are evil friends! . . . Even if you are killed by a mad elephant, you will not fall into the three evil paths. But if you are killed by an evil friend, you are certain to fall into them. " On Establishing the Correct Teaching  for the Peace of the Land " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 11 in July, 1260. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  "The Three Evil Paths:" There are the wold

願くは我が弟子等・大願ををこせ - My wish is that all my disciples make a great vow.

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本文 願くは我が弟子等・大願を をこせ、去年 去去年(こぞ おととし)の やくびやうに 死にし 人人の・かずにも入らず、又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしとも みへず、 とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、 をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海に あつらへ・ちりを大地に うづむと をもへ ねがわくは わが でし ら・だいがん を おこせ、こぞ おととし の やくびょう に しに し ひとびと の・かず にも いらず、また とうじ・もうこ の せめ に・まぬかるべし とも みえず、 とにかく に し は いちじょう なり、そのときの なげき は とうじ の ごとし、 おなじく は・かり にも ほけきょう の ゆえ に いのち を すてよ、つゆ を たいかい に あつらえ・ちり を だいち に うずむ と おもえ 上野殿御返事 うえのどのごへんじ [竜門御書] りゅうもんごしょ 1561頁 弘安2年11月 (1279年) 通解(意訳) 願わくは、我が弟子たちは広宣流布という大願を起こしなさい。 去年や一作年に起こった疫病で死んだ人々の数には入らなかったにしても、現在、蒙古(モンゴル帝国)が攻めてきた時に、死を免れることができるとは思えない。 とにかく、どんな形であれ、人の死というものは、いずれ皆に平等に訪れるものであり、决定した(けつじょう した、決まった)事である。その時の嘆きや苦しみは、死の間際では全く同じ苦しみなのである。 同じ死を迎える事が決定しているのであれば、「もしかしたら、自分の命は明日には無いかもしれない」と思い切って、法華経のために命を捨てなさい。 これこそ、露のような小さな生命を、法華経という大海に入れるように、また塵が妙法という大地に埋める事だと思いなさい。 法華経のために命を捨てるということは、今世においては、最高に幸福な人生を送ることができ、最期にはまた、法華経の行者として誉れ高い死を迎えることができる。そして来世に於いてもまた法華経に縁して、法華経の行者として生まれてくることができるのである。 英語で御書 Gosho in English My wish is that all my disciples make a great vow. We are very fort

法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり - I was the first to reveal as the banner of propagation of the Lotus Sutra

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本文 爰に日蓮 いかなる不思議にてや候らん 竜樹 天親等・天台 妙楽等だにも 顕し給はざる大曼荼羅を・末法 二百余年の比 はじめて法華弘通のはたじるしとして 顕し奉るなり、 是 全く日蓮が自作にあらず 多宝塔中の大牟尼世尊 分身の諸仏 すりかたぎたる 本尊なり ここ に にちれん いかなる ふしぎ にてや そうらん りゅうじゅ てん しん とう・てんだい みょうらく とう だにも あらわし たまわざる だいまんだら を・まっぽう にひゃくよねん の ころ はじめて ほっけぐつう の はたじるし と して あらわし たてまつる なり、 これ まったく にちれん が じさ に あらず たほうとうちゅう の だい むに せそん ぶんしん の しょぶつ すり かたぎたる ほんぞん なり 日女御前御返事 にちにょごぜんごへんじ [御本尊相貌抄] ごほんぞんしょうみょうそう (1243頁) 建治3年8月 (1277年) 通解(意訳) ここに、日蓮はどういう不思議であろうか、正法時代の竜樹・天親等・像法時代の天台・妙楽等でさえ、顕わす(あらわす)ことのなかった大曼荼羅を、末法にはいって二百余年を経たこの時に、初めて、法華弘通の旗印として顕わしたのである。 この大曼荼羅は、全く日蓮が勝手に作り出したものではなく、法華経に出現した多宝塔の中の釈迦牟尼仏、ならびに十方(全宇宙)の分身の諸仏のありさまを、まさに板木ですりあらわした御本尊なのである。 英語で御書 Gosho in English How wondrous it is that, around two hundred years and more into the Latter Day of the Law, I was the first to reveal as the banner of propagation of the Lotus Sutra this great mandala that even those such as Nāgārjuna and Vasubandhu, T’ien-t’ai and Miao-lo were unable to express. This mandala is in no way my invention. It is the object of devoti

譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し - This is similar to a tarnished mirror that will shine like a jewel when polished.

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本文 衆生と云うも 仏と云うも 亦 此くの如し 迷う時は 衆生と名付け 悟る時をば 仏と名けたり、 譬えば 闇鏡も 磨きぬれば 玉と見ゆるが如し、 只今も 一念無明の迷心は 磨かざる鏡なり 是を磨かば 必ず 法性真如の明鏡と 成るべし、 深く信心を発して 日夜朝暮に 又 懈らず磨くべし 何様にしてか磨くべき 只 南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを 是を磨くとは云うなり しゅじょうと いうも ほとけと いうも また かくの ごとし まよう ときは しゅじょうと なづけ さとる ときをば ほとけと なづけたり、 たとえば あんきょうも みがき ぬれば たまと みゆるが ごとし、 ただいまも いっしんむみょうの めいしんは みがかざる かがみなり これを みがかば かならず ほっしょうしんにょの みょうきょうと なるべし、 ふかく しんじんを おこして にちやちょうぼに また おこたらず みがくべし いかようにしてか みがくべき ただ なんみょうほうれんげきょうと となえたてまつるを これを みがくとは いうなり 一生成仏抄 いっしょうじょうぶつしょう (384頁) 建長7年 (1255年) 通解(意訳) 衆生といっても仏といっても、また同様に2つの隔てがあるわけではない。迷う時は衆生と名付け、悟った時には仏と名付けるのである。 たとえば、曇っている鏡であっても、磨けば玉のように見えるようなものである。 一念無明の迷信とは、今の悩みや苦しみ等によって迷っている心の状態であり、まだ磨いていない鏡のようなものである。この鏡を磨けば、必ず仏性という本来生命に備わっている仏の生命(法性真如:仏界)を開き、明るく輝く鏡となるのである。 深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、また怠らずに磨いていきなさい。 では、どのように磨けばよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これを(生命という鏡を)磨くというのである。 英語で御書 Gosho in English It is the same with a Buddha and an ordinary being. When deluded, one is called an ordinary being, but when enlightened, one is called a Buddha. This is s

此の経計り一念三千の玉をいだけり - the Lotus Sutra alone contains this jewel that is the doctrine of three thousand realms in a single moment of life.

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本文 一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ、 此の一念三千も我等一分の慧解もなし、 而ども一代経経の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり いちねんさんぜん こそ ほとけ に なるべき みち と みゆれ、 この いちねさんぜん も われら いちぶん の えげ も なし、しかれども いちだい きょう きょう の なか には この きょう ばかり いちねんさんぜん の たま を いだけり 開目抄・上 かいもくしょう・じょう [人本尊開顕書] [人本尊開顕の書] にんほんぞんかいけんのしょ (234頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 一念三千の法理こそ、成仏の唯一の道である。 この一念三千について、私達は一部分でも悟る知恵や理解はもっていない。 それでも、釈尊が一生の間に説いた様々な経の中には、この法華経だけが、一念三千という、万人成仏の宝玉を抱いているのである。 英語で御書 Gosho in English [Only the] doctrine of three thousand realms in a single moment of life is the path to Buddhahood. Even in the case of this doctrine of three thousand realms in a single moment of life, we do not possess the kind of wisdom and understanding to comprehend it fully. Nevertheless, among all the sutras preached by the Buddha during his lifetime, the Lotus Sutra alone contains this jewel that is the doctrine of three thousand realms in a single moment of life. " The Opening of the Eyes " Part One  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 283 in F

日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし - The soul of Nichiren is nothing other than Nam-myoho-renge-kyo.

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本文 日蓮がたましひを すみにそめながして・かきて候ぞ 信じさせ給へ、 仏の御心は法華経なり 日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるは なし にちれん が たましい を すみ に そめながして・かきて そうろう ぞ しんじ させ たまえ ほとけ の みこころ は ほけきょう なり にちれん が・たましい は なんみょうほうれんげきょう に・すぎたる は なし 経王殿御返事 きょうおうどのごへんじ (1124頁) 文永10年8月 (1273年) 通解(意訳) 日蓮が顕した御本尊は、日蓮の生命を削ってでも、すべての人々を救いたいという魂を墨に染め流して書き認めたものである。しっかりと信じ抜き、受持していきなさい。 釈尊が説いた真の法門は法華経であるが、諸法が乱立している末法においては、南無妙法蓮華経が真の法門であり、日蓮仏法の南無妙法蓮華経以外にはない。 英語で御書 Gosho in English I, Nichiren, have inscribed my life in sumi ink, so believe in the Gohonzon with your whole heart. The Buddha’s will is the Lotus Sutra, but the soul of Nichiren is nothing other than Nam-myoho-renge-kyo. " Reply to Kyō’ō " " Reply to Kyo'o " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 412 in August, 1278. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Nichiren wrote the GOHONZON with the soul that I want to save everyone even if I lose my life. Believe this GOHONZON firmly and keeping on it. Sakyamuni Buddha pre

一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる - The Buddha nature of all living beings will be summoned and gather around you.

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本文 上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで 所有 一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、 されば一遍此の首題を唱へ奉れば 一切衆生の仏性が皆よばれて 爰に集まる時 我が身の法性の法 報 応の三身 ともに・ひかれて顕れ出ずる 是を成仏とは申すなり、 例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる 是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し かみ は ひそう の くも の うえ・しも は ならく の ほのお の そこ まで いわゆる いっさいしゅじょう の そなうる ところ の ぶっしょう を みょうほうれんげきょう とは なづくる なり、 されば いっぺん この しゅだい を となえ たてまつれば いっさいしゅじょう の ぶっしょう が みな よばれて ここ に あつまる とき わが み の ほっしょう の ほっぽうおう の さんじん とも に ひかれて あらわれ いずる これ を ぶっしょう とは もうす なり、 れいせば かご の うち に ある とり の なく とき・そら を とぶ しゅうちょう の どうじ に あつまる これ を みて かご の うち の とり も いでん と する が ごとし 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 上は想像もつかない雲の上にいるような生命の状態の者から、下は地獄の炎の底にいるような生命の状態の者まで、あらゆる者の生命に本来備えている仏性を、妙法蓮華経と名づけるのである。 そうであるから、一遍でもこの妙法蓮華経と唱へたてまつれば、あらゆる者の仏性が皆呼ばれて、そこに集まる時、自己の生命の中の法・報・応の三身(仏の生命力)がともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのであり、成仏とは、妙法蓮華経と唱えた瞬間に、即ぐに自己の仏の生命を成く(ひらく)という意味なのである。 たとえば籠の内いる鳥が鳴く時、その鳴き声を聞いて、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる、これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。 英語で御書 Gosho in English All living beings from the realm where there is neither thought nor no thought ab

偏に四大菩薩を出現せしむ可き先兆なるか - They must foretell the appearance of the four great bodhisattvas.

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本文 正像に無き大地震・大彗星等 出来す、此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず 偏に四大菩薩を出現せしむ可き 先兆なるか、 天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り 花の盛なるを見て池の深きことを知る」等云云、妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、 天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか しょうぞうに なき おおじしん・だいすいせいとう しゅったいす、これらは こんじちょう・しゅら・りゅうじんとうの どうへんに あらず ひとえに しだいぼさつを しゅつげん せしむべき せんちょう なるか、 てんだいいわく「あめの たけきをみて りゅうの だいなるをしり はなの さかんなるを みて いけの ふかきことを しる」とう うんぬん、みょうらくたいし いわく「ちじんは きを しり へびは みずから へびを しる」とう うんぬん、 てん はれぬれば ち あきらかなり ほっけを しるものは せほうを うべきか 観心本尊抄 かんじんのほんぞんしょう [如来滅後五五百歳始観心本尊抄] にょらいめつご ご ごひゃくさい に はじむ かんじん の ほんぞんしょう [法本尊開顕の書] ほうほんぞんかいけんのしょ (246頁) 文永10年4月 (1272年) (254頁) 文永10年4月 正法・像法時代には起きなかった大地震・大彗星等の天変地異が、近年立て続けに出来している。これらは金翅鳥・阿修羅・竜神等が起こす動変ではない。ひとえに地涌の菩薩のリーダーである、上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の四菩薩が出現すべき先兆であろう。 天台大師は「雨が猛々しく降る現証を見て、雨を降らせる言われている、竜の力の偉大なることを知り、蓮華の花が大きく咲き盛なっている様子を見て、その池の深いことを知る」等と言い、妙楽大師は「智人は将来起こるべきことを知り、蛇は自ら蛇の本質を知っている」等と言っている。 天が晴れるならば、大地は明るくなる。太陽の光に従って大地が明るくなるように、法華経を識る者は、今の世間の本質(世法)を明らかに知り得られるであろう。 英語で御書 Gosho in English We have recently experienced great earthquakes, huge comets, and other calamit

善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申す - One who is thoroughly awakened to the nature of good and evil from their roots to their branches and leaves is called a Buddha.

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本文 本末究竟と申すは 本とは 悪のね 善の根・末と申すは 悪の をわり 善の終り ぞかし、 善悪の根本 枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり ほんまつくきょう と もうすは ほん とは あく の ね ぜん の ね・まつ と もうすは あく の おわり ぜん の おわり ぞかし、 ぜん あく の こんぽん しよう を さとり きわめたるを ほとけ とは もうすなり 減劫御書 げんこうごしょ [智慧亡国書] ちえぼうこくしょ (1466頁) 建治2年以後 (1276年) 通解(意訳) 本末究竟(ほんまつくきょう、勤行・方便品第二の最後にある、『所為諸法。如是相。如是性。。。如是本末究竟等。』の、十如是の箇所)というのは、本とは悪の根本・善の根本であり、末というのは悪の終わり、善の終わりのことである。善悪の根本から枝葉までを悟り極めているのを仏というのである。 英語で御書 Gosho in English In the phrase “consistency from beginning to end,” “beginning” indicates the root of evil and the root of good, and “end” indicates the outcome of evil and the outcome of good. One who is thoroughly awakened to the nature of good and evil from their roots to their branches and leaves is called a Buddha. " The Kalpa of Decrease " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1120 After 1276. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  In the phrase : The Part of the Gongyo from "SHO-I-SHO-HO" to "NYO-ZE-HON-MAK

十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり - To be endowed with the Ten Worlds means that all ten, without a single exception, exist in one world.

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本文 此の御本尊 全く余所に求る事なかれ・只 我れ等 衆生の法華経を持ちて 南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を 九識心王真如の都 とは申すなり、 十界具足とは十界 一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり 此には 輪円具足 とも 功徳聚 とも名くるなり、 此の御本尊も 只 信心の二字に をさまれり 以信得入とは是なり。 この ごほんぞん まったく よそ に もとむる こと なかれ・ただ われら しゅじょう の ほけきょう を たもちて なんみょうほうれんげきょう と となうる きょうちゅう の にくだん に おわします なり、これ を く しき しんのう しんにょ の みやこ とは もうす なり、 じっかいぐそく とは じっかい いっかい も かけず いっかい に ある なり、これ に よって まんだら とは もうす なり、まんだら と いう は てんじく の な なり これ には えんりんぐそく とも くどくじゅ とも なづくる なり この ごほんぞん も ただ しんじん の にじ に おさまれり いしんとくにゅう とは これなり。 日女御前御返事 にちにょごぜんごへんじ [御本尊相貌抄] ごほんぞんそうみょうしょう (1244頁) 建治3年8月 (1277年) 通解(意訳) この御本尊を決して別の所に求めてはならない。ただ、われわれ衆生が法華経を信受して、南無妙法蓮華経と唱える、自身の胸中の肉団にいらっしゃるのである。これを「九識心王真如の都」(自身の奥底にある、絶対的幸福の生命の都)というのである。 十界具足とは、 十界 (一瞬の人の生命の状態を十界で著す考え方) の中の一界も欠けず、そのまま一界に納まっているということである。これによって、 自身の生命はそのまま御本尊であり、 御本尊を曼陀羅というのである。 曼陀羅というはインドの言葉であり、訳すれば 円の様に欠けることのなく、全てが備わっている完全な命の状態を指す 輪円具足とも、 功徳の集まりである 功徳聚ともいうのである。 この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである。「信を以って入ることを得たり」とあるのは、このことである。 この御本尊も全く同じであり、ただ信心の二文字に全てが備わ

いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ - If I speak out, I am fully aware that I will have to contend with the three obstacles and four devils.

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本文 法華経・涅槃経等に 此の二辺を合せ見るに・ いはずば 今生は事なくとも 後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、 王難等・出来の時は 退転すべくは 一度に思ひ止るべしと 且くやすらいし程に 宝塔品の六難九易これなり ほけきょう ねはんぎょう に この にへん を あわせみる に いわずば こんじょう は こと なくとも ごしょう は かならず むけんじごく に おつ べし、いう ならば さんしょうしま かならず きそい おこる べし と・しりぬ、にへん の うち には・いう べし、 おうなん とう・しゅったい の とき は たいてん すべく は いちど に おもい とどまるべし と しばらく やすらいし ほど に ほうとうほん の ろくなんくい これ なり 開目抄・上 かいもくしょう・じょう [人本尊開顕書] [人本尊開顕の書] にんほんぞんかいけんのしょ (200頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 法華経・涅槃経等の文に、法華経を説くと様々な困難が競い起こる事について、言うか言わないのかの二辺を合わせ見るに、 言わないならば、今生には事がないけれども後生は必ず無間地獄に堕ちるであろう。 言うならば、三障四魔が競い起こってこれを妨げるのであるということがわかった。 この二辺の中には言うべきである。 しかし王難等の大迫害が起きたなら、一度に思いとどまるであろうと、しばらく考えつつある時に、思い当たったのが宝塔品の六難九易である。 英語で御書 Gosho in English I have considered which course to take in the light of the teachings of the Lotus and Nirvana sutras. If I remain silent, I may escape persecutions in this lifetime, but in my next life I will most certainly fall into the hell of incessant suffering. If I speak out, I am fully aware that I will have t

況滅度後の大難の三類甚しかるべし - The great persecutions of the three types of enemies that are certain to be more horrible now after the Buddha’s passing.

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本文 されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし 況滅度後(きょう めつ ど ご)の大難の三類甚しかるべし されば この きょう を ちょうもん し はじめん ひ より おもい さだむ べし きょうめつ どご の だいなん の さんるい はなはだし かるべし 如説修行抄 にょせつしゅぎょうしょう (501頁) 文永10年5月 (1273年) 通解(意訳) 法華経の修行を真剣に始めようとするなら、この法華経を聞いたその日から、覚悟を定めなさい。 末法には、猶多怨嫉・況滅度後(ゆ た おん しつ・きょう めつ ど ご、釈尊在世の世でさえ猶(なお)、怨みや嫉妬が多い。況や滅度の後をや)と経文にある。 このように、釈尊在世以上に、在家の男女(俗衆増上慢)、出家の僧侶(道門増上慢)、世間的には聖人のように振る舞っているが、本心は名誉や財産に執着し、偽善を行っている僧侶(僭聖増上慢)の、三種類の強敵が、はなはだしく現われるのである  英語で御書 Gosho in English Therefore, from the very day you listen to [and take faith in] this sutra, you should be fully prepared to face the great persecutions of the three types of enemies that are certain to be more horrible now after the Buddha’s passing. " On Practicing the Buddha’s Teachings " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 391 May, 1273. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Three types of enemies (1) “The arrogance and presumption of lay people” or arrogant lay people. (2) “The arrogance a

世間に財を積める蔵に鍵なければ開く事かたし - If there is a storehouse full of treasures but no key, then it cannot be opened

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本文 妙と申す事は 開と云う事なり 世間に財を積める蔵に 鍵なければ 開く事かたし 開かざれば 蔵の内の財を見ず みょう と もうす こと は かい と いう こと なり せけん に たから を つめる くら に かぎ なければ ひらく こと かたし ひらかざれば くら の うち の たから を みず 法華経題目抄 ほけきょうだいもくしょう (943頁) 文永3年1月 (1266年) 通解(意訳) (南無妙法蓮華経の)「妙」とは、本来自身に備わっている仏の境涯を開くということである。世間のたとえで言えば、財宝が詰まった蔵があっても、蔵を開く鍵がなければ開くことができない。蔵が開かなければ、蔵の中の財宝を見ることはできない。 南無妙法蓮華経の妙の文字は、仏の境涯を開く「鍵」なのである。 英語で御書 Gosho in English The Great Teacher Chang-an states, “Myō means to reveal the depths of the secret storehouse.” The Great Teacher Miao-lo says of this, “To reveal means to open.” Hence the character myō means to open. If there is a storehouse full of treasures but no key, then it cannot be opened, and if it cannot be opened, then the treasures inside cannot be seen. " The Daimoku of the Lotus Sutra " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 145 in January, 1266. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Myō : The Character of "Nam-Myoho-Renge-Kyo." Gosho i

ひとつのかたびら・なれども法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし - Though only one robe, it has been offered to the Buddhas of all the characters of the Lotus Sutra

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本文 ひとつのかたびら・なれども法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし。 この功徳は父母・祖父母・乃至 無辺の衆生にも.をよぼしてん、 まして・わが・いとをし(愛し)と・をもふ(想う)・をとこ(夫)は申すに及ばずと、おぼしめすべし ひとつ の かたびら・なれども ほけきょう の いっさい の もじ の ほとけ に たてまつるべし。 この くどく は ふぼ・そふぼ・ないし むへん の しゅじょう にも・およぼしてん、 まして・わが・いとおし と・おもう・おとこ は もうす に およばず と、おぼしめすべし さじき女房御返事 さじきにょうぼうごへんじ (1231頁) 建治元年5月 (1275年) 通解(意訳) 一枚の帷子(かたびら、着る物)ではあるが、法華経の一切の69,384文字に宿る、69,384の仏に供養したことになるのである。 この功徳は、あなたの父母・祖父母・さらには多くの衆生にも及ぶことは間違いない。 ましてや、あなたの最愛の夫に功徳が及ぶことはいうまでもないと、お思いなさい。 英語で御書 Gosho in English Though only one robe, it has been offered to the Buddhas of all the [ 69, 384 ] characters of the Lotus Sutra. Be firmly convinced that the benefits from this will extend to your parents, your grandparents, nay, even to countless living beings, not to mention your own husband, whom you hold most dear. " The Offering of an Unlined Robe " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 533 in May, 1275. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese ひとつ の かたびら・なれども 法華経 の 一切 の 文字 の 仏 に たて

教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ - The purpose of the appearance in this world of Shakyamuni Buddha, the lord of teachings, lies in his behavior as a human being.

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本文 一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、 不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ 教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ いちだい の かんじん は ほけきょう・ほけきょう の しゅぎょう は ふきょうぼん にて そうろう なり、 ふきょうぼさつ の ひと を うやまいし は・いかなることぞ きょうしゅ しゃくそん の しゅっせ の ほんかい は ひと の ふるまい にて そうらいけるぞ 崇峻天皇御書 すしゅんてんのごしょ [三種財宝御書] さんしゅざいほうごしょ (1174頁) 建治3年9月 (1277年) 通解(意訳) 釈尊一代の説法の肝心は法華経であり、法華経の修行の肝心が説かれているのは不軽品である。 不軽菩薩がすべての人を敬ったということは、どのような意味があるのだろうか。 教主釈尊の出世の本懐(この世に出現した究極の目的)は、人間としての振る舞いを示すことにあったのである。 不軽菩薩の実践の集いが創価学会 学会の根本精神は人を敬うことにある。 人の幸福を願い、実現していくことにある。人に尽くしていくことにある。 現代社会にあっては、他者への無関心が進む一方、利害や力関係によるつながりが優先され、”人間性”が追いやられてきた。 だからこそ、尊敬と信頼の励ましの、人間の温もりにあふれた社会を築いていくのだ -池田大作 英語で御書 Gosho in English The heart of the Buddha's lifetime of teachings is the Lotus Sutra, and the heart of the practice of the Lotus Sutra is found in the "Never Disparaging" chapter. What does Bodhisattva Never Disparaging's profound respect for people signify? The purpose of the appearance in this world of Shakyamuni Buddha, The lord of teachings, lies in his behavior as a human b

法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり - No treasure tower exists other than the figures of the men and women who embrace the Lotus Sutra

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本文 末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、 若し然れば 貴賤上下をえらばず 南無妙法蓮華経と・となうるものは 我が身 宝塔にして 我が身 又 多宝如来なり、 妙法蓮華経より外に 宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり 宝塔 又 南無妙法蓮華経なり まっぽう に いって ほけきょう を たもつ なんにょ の・すがた より ほか には ほうとう なき なり、 もし しかれば きせん じょうげ を えらばず なんみょうほうれんげきょう と・となうる もの は わが み ほうとう に して わが み また たほうにょらい なり、 みょうほうれんげきょう より ほか に ほうとう なき なり、ほけきょう の だいもく・ほうとう なり ほうとう また なんみょうほうれんげきょうなり 阿仏房御書 あぶつぼうごしょ [宝塔御書] ほうとうごしょ (1304頁) 文永9年3月(1272年) (建治2年(1279年)説有り) 通解(意訳) 末法に入って、法華経(御本尊)を持つ男女の姿より他には宝塔はない。 もしそうであれば、身分の貴さやいやしさ、立場の上と下といった差別なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人自身がそのまま宝塔であり、またその身が多宝如来(仏)なのである。 妙法蓮華経以外に宝塔はない。法華経の題目は南無妙法蓮華経が宝塔である。宝塔はまた南無妙法蓮華経なのである。  英語で御書 Gosho in English In the Latter Day of the Law, no treasure tower exists other than the figures of the men and women who embrace the Lotus Sutra. It follows, therefore, that whether eminent or humble, high or low, those who chant Nam-myoho-renge-kyo are themselves the treasure tower, and, likewise, are themselves the Thus Come One Many Treasures. No treasure tower exists other th

皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり - Were they not Bodhisattvas of the Earth, they could not chant the daimoku.

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本文 いかにも今度・信心をいたして 法華経の行者にてとをり、日蓮が一門と なりとをし給うべし、 日蓮と同意ならば 地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、 経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、 末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり いかにも こんど・しんじん を いたして ほけきょう の ぎょうじゃ にて とおり、にちれん が いちもん と なりとおし たもうべし、にちれん と どうい ならば じゆ の ぼさつ たらんか、じゆ の ぼさつ に さだまりなば しゃくそん くおん の でし たる こと あに うたがわんや、 きょう に いわく「われ くおん より この かた これら の しゅ を きょうけ す」とは これ なり、 まっぽう に して みょうほうれんげきょう の ごじ を ひろめん もの は なんにょ は きらう べからず、みな じゆ の ぼさつ の しゅつげん に あらずんば となえがたき だいもく なり 諸法実相抄 しょほうじっそうしょう (1360頁) 文永10年5月 (1273年) 通解(意訳) どんなことがあっても、今世で信心を起こしたなら、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となり、師弟の道を貫き通しなさい。 日蓮と同じ志しならば、地涌の菩薩(じゆ の ぼさつ)であろうか。地涌の菩薩であると定まっているのであれば、釈尊の久遠の弟子であるということをどうして疑うことができようか。 法華経従地涌出品第十五に「これらの菩薩は、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのは、このことである。 末法において、妙法蓮華経の五字を弘める者は、老若男女問わず、分け隔てをしてはならない。皆それぞれの使命を持って、地涌の菩薩として出現した人々でなければ、唱えることのできない題目だからである。  英語で御書 Gosho in English Now, no matter what, strive in faith and be known as a votary of the Lotus Sutra, and remain my disciple for the rest of your life. If