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3月, 2020の投稿を表示しています

金はやけば弥色まさり剣はとげば弥利くなる - The more gold is heated in the flames, the brighter will be its color; the more a sword is whetted, the sharper it will become.

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本文 金は やけば 弥 色まさり 剣は とげば 弥 利くなる・ 法華経の功徳は ほむれば 弥 功徳まさる こがね は やけば いよいよ いろ まさり つるぎ は とげば いよいよ とく なる・ ほけきょう の くどく は ほむれば いよいよ くどく まさる KOGANE WA YAKEBA IYOIYO IRO MASARI TSURUGI WA TOGEBA IYOIYO TOKU NARU・ HOKEKYO NO KUDOKU WA HOMUREBA IYOIYO KUDOKU MASARU 妙密上人御消息 みょうみつしょうにんごしょうそく MYŌMITSU SHŌNIN GOSHŌSOKU [法華経功徳抄] ほけきょうくどくしょう HOKEKYO KUDOKU SHŌ (1241~1242頁)  建治2年潤3月 (1276年) 通解(意訳) 金は、焼いて精錬すれば、いよいよ色がよくなり、剣は、研げばいよいよ良く切れるようになる。 同じように、法華経の功徳に歓喜して讃嘆すれば、ますます功徳が勝るのである。 英語で御書 Gosho in English The more gold is heated in the flames, the brighter will be its color; the more a sword is whetted, the sharper it will become. And the more one praises the blessings of the Lotus Sutra, the more one’s own blessings will increase. " The Blessings of the Lotus Sutra " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 673 in March, 1276. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 金は やけば 弥 色まさり 剣は とげば 弥 利くなる・ 法華経の功徳は ほむれば 弥

妙法蓮華経とは其の体何物ぞや - What is the entity of Myoho-renge-kyo?

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本文 問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、 答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、 問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、 答う勿論なり経に云く「所謂諸法・乃至・本末究竟等」云云 とう みょうほうれんげきょう とは その たい なにもの ぞや、 こたう じっかい の えしょう すなわち みょうほうれんげ の とうたい なり、 とう もし しかれば われら が ごとき いっさいしゅじょう も みょうほう の ぜんたい なり と いわる べき か、 こたう もちろん なり きょう に いわく「しょいしょほう・ないし・ほんまつくきょうとう」うんぬん TOU MYO-HO-RENGE-KYO TOWA SONO TAI NANIMONO ZOYA, KOTAU JIK'KAI NO E-SHO SUNAWACHI MYO-HO-RENGE-KYO NO TŌTAI NARI, TOU MOSHI SHIKAREBA WARERA GA GOTOKI IS'SAI SHUJŌ MO MYOHO NO ZENTAI NARI TO IWARU BEKI KA, KOTAU MOCHIRON NARI KYŌ NI IWAKU「SHO-I-SHO-HŌ・NAISHI・HONMAK'KUKYO-TŌ」UN-NUN 当体義抄 とうたいぎしょう TOUTAI-GI-SHŌ (510頁) 文永10年 (1273年) 通解(意訳) 問う、妙法蓮華経とは、その当体は、どのようなものであろうか。 答う、心の状態を顕した十界の依報と正報とのすべてが、妙法蓮華経の当体である。 問う、もしそうであるならば、我々のような凡夫をはじめ、一切衆生も妙法の全体であるといえるのであろうか。 答う、もちろんそうである。その証文としては、方便品第二に「所謂諸法・乃至・本末究竟して等しい」とあるとおりである。 妙法蓮華経とは、その人の身心の事であり、身心の状態がそのまま妙法の当体なのである。 英語で御書 Gosho in English QUESTION: What is the entity of Myoho-renge-kyo? Answer: All be

日蓮は日本の人の魂なり - Nichiren is the soul of the people of this country.

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本文 日蓮によりて日本国の有無はあるべし、 譬えば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり にちれん に よりて にほんこく の うむ は あるべし、 たとえば いえ に はしら なければ・たもたず ひと に たましい なければ しにん なり、にちれん は にほん の ひと の たましい なり NICHIREN NI YORITE NIHONKOKU NO UMU WA ARUBESHI, TATOEBA IE NI HASIRA NAKEREBA・TAMOTAZU HITO NI TAMASHII NAKEREBA SHININ NARI, NICHIREN WA NIHON NO HITO NO TAMASHII NARI 種種御振舞御書 しゅじゅおふるまいごしょ SHUJU OFURUMAI GOSHO [佐渡抄] さどしょう SADO SHŌ (919頁)  建治2年3月 (1276年) 通解(意訳) 日蓮によって日本国の存亡は決まるのである。 たとえば、家に柱がなければ家は保たれず、人に魂がなければ死人であるのと同じである。 日蓮は日本の人の魂である。 英語で御書 Gosho in English The destiny of Japan depends solely upon Nichiren. A house without pillars collapses, and a person without a soul is dead.  Nichiren is the soul of the people of this country. " The Actions of the Votary of the Lotus Sutra " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 772 in February, 1277. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 日蓮 に よりて 日本国 の 有無 は あるべし、 譬えば 宅 に 柱 なければ・たもたず 人 に 魂 なけれ

日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし - If Nichiren's compassion is truly great and encompassing, Nam-myoho-renge-kyo will spread for ten thousand years and more, for all eternity

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本文 日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、 此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、 是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳 にちれん が じひ こうだい ならば なんみょうほうれんげきょう は まんねん の ほか・みらい までも ながるべし、 にほんこく の いっさいしゅじょう の もうもく を ひらける くどく あり、むげんじごく の みち を ふさぎぬ、 この くどく は でんきょう・てんだい にも こえ りゅうじゅ・かしょう にも すぐれたり ごくらく ひゃくねん の しゅぎょう は えど の いちにち の くどく に およばず、しょうぞう にせんねん は まっぽう の いちじ に おとるか、 これ ひとえ に にちれん が ち の かしこき には・あらず とき の しからしむる のみ NICHIREN GA JIHI KŌDAI NARABA NAM-MYOHO-RENGE-KYO WA MAN-NEN NO HOKA・MIRAI MADE MO NAGARU BESHI, NIHONKOKU NO IS'SAI-SHUJŌ NO MOUMOKU WO HIRAKERU KUDOKU ARI, MUGEN-JIGOKU NO MICHI WO FUSAGINU, KONO KUDOKU WA DENKYO, TENDAI NIMO KOE RYŪJU・KASHŌ NIMO SUGURETARI GOKURAKU HYAKUNEN NO SHUGYŌ WA EDO NO ICHINICHI NO KUDOKU NI OYOBAZU, SHŌZŌ NISEN-NEN WA MAP'PO NO ICHIJI NI OTORUKA, KORE HITOE NI NICHIREN GA CHI NO KASHIKOKI NIWA・ARAZU TOKI NO SHIKARASIMURU NOMI 報恩抄 ほうおんしょう HŌ ON SHŌ (329頁)  

行学の二道をはげみ候べし - Exert yourself in the two ways of practice and study.

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本文 行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、 我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし ぎょうがく の にどう を はげみ そうろう べし、ぎょうがく たえなば ぶっぽう は ある べからず、 われ も いたし ひと をも きょうけ そうらえ、ぎょうがく は しんじん より おこる べく そうろう、ちから あらば いちもん いっく なりとも かたらせ たもうべし GYŌGAKU NO NIDŌ WO HAGEMI SŌRŌ BESHI, GYŌGAKU TAENABA BUP'PŌ WA ARU BEKARAZU, WARE MO ITASHI HITO WOMO KYŌKE SŌRAE, GYŌGAKU WA SHINJIN YORI OKORU BEKU SŌRŌ, CHIKARA ARABA ICHIMON IK'KU NARITOMO KATARASE TAMOU BESHI 諸法実相抄 しょほうじっそうしょう SHOHŌ JISSŌ SHŌ (1360頁) 文永10年5月 (1273年) 通解(意訳) 法華経(広宣流布)のために行動し、法華経のことを学んでいきなさい。行学が途絶えてしまえば、仏法はないのである。 自分も行い、人にも教えて導いていきなさい。行学は信心から起こるものである。 力があれば、行学で学んだことや体験などを、一文一句でも人に語っていきなさい。 英語で御書 Gosho in English Exert yourself in the two ways of practice and study. Without practice and study, there can be no Buddhism. You must not only persevere yourself; you must also teach others. Both practice and study arise from faith. Teach others to the best of your ability, even if it is only a single sentence

貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり - whether eminent or humble, high or low, those who chant Nam-myoho-renge-kyo are themselves the treasure tower

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本文 末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、 若し然れば 貴賤上下をえらばず 南無妙法蓮華経と・となうるものは 我が身 宝塔にして 我が身 又 多宝如来なり、 妙法蓮華経より外に 宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり 宝塔 又 南無妙法蓮華経なり まっぽう に いって ほけきょう を たもつ なんにょ の・すがた より ほか には ほうとう なき なり、 もし しかれば きせん じょうげ を えらばず なんみょうほうれんげきょう と・となうる もの は わが み ほうとう に して わが み また たほうにょらい なり、 みょうほうれんげきょう より ほか に ほうとう なき なり、ほけきょう の だいもく・ほうとう なり ほうとう また なんみょうほうれんげきょうなり MAPPŌ NI ITTE HOKEKYO WO TAMOTSU NAN-NYO NO・SUGATA YORI HOKA NIWA HŌTŌ NAKI NARI, MOSHI SHIKAREBA KISEN JŌGE WO ERABAZU NAM-MYOHO-RENGE-KYO TO・TONAURU MONO WA WAGAMI HOTO NI SHITE WAGAMI MATA TAHŌ-NYORAI NARI, MYOHO-RENGE-KYO YORI HOKA NI HŌTŌ NAKI NARI, HOKEKYO NO DAIMOKU・HŌTŌ NARI HŌTŌ MATA NAM-MYOHO-RENGE-KYO NARI 阿仏房御書 あぶつぼうごしょ ABUTSUBŌ GOSHO [宝塔御書] ほうとうごしょ HŌTŌ GOSHO (1304頁) 文永9年3月(1272年) (建治2年(1279年)説有り) 通解(意訳) 末法に入って、法華経(御本尊)を持つ男女の姿より他には宝塔はない。 もしそうであれば、身分の貴さやいやしさ、立場の上と下といった差別なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人自身がそのまま宝塔であり、またその身が多宝如来(仏)なのである。 妙法蓮華経以外に宝塔はない。法華経の題目は南無妙法蓮華経が宝塔である。宝塔はまた南無妙法蓮華経なのである。 

とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ - Commit yourself to the Lotus Sutra and have faith in its teachings.

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本文 とにかくに 法華経に身をまかせ 信ぜさせ給へ、殿一人に かぎるべからず・信心をすすめ給いて 過去の父母等をすくわせ給へ。 日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり とにかくにほけきょうにみをまかせしんぜさせたまえ、とのいちにんにかぎらず・しんじんをすすめたまいてかこのぶもとうをすくわせたまえ。 にちれんうまれしときより・いまにいちにちかたときも・こころやすきことはなし、このほけきょうのだいもくをひろめんとおもうばかりなり TONIKAKU NI HOKEKYO NI MI WO MAKASE SHINJI SASE TAMAE, TONO ICHININ NI KAGIRAZU・SHINJIN WO SUSUME TAMAITE KAKO NO BUMO TOU WO SUKUWASE TAMAE. NICHIREN UMARESHI TOKI YORI・IMA NI ICHINICHI KATATOKI MO ・KOKORO YASUKI KOTOWA NASHI, KONO HOKEKYO NO DAIMOKU WO HIROMEN TO OMOU BAKARI NARI 上野殿御返事 うえのどのごへんじ UENO DONO GOHENJI [刀杖難事] とうじょうなんのこと TŌJŌ NAN-NO-KOTO (1557~1558頁) 弘安2年4月 (1272年) 通解(意訳) とにかく、法華経に身をまかせて信じていきなさい。あなた一人だけが信ずるだけでなく、縁した人々に信心をすすめて、過去の父母等(=今世の人生で巡り合う無数の縁ある人々)を救っていきなさい。 日蓮は生まれたときから今日に至るまで、片時も心が休まることはない。ただただ、この法華経の題目である、南無妙法蓮華経を弘めようと思うばかりである。 英語で御書 Gosho in English Be that as it may, commit yourself to the Lotus Sutra and have faith in its teachings. You must not only believe in them your

毒薬変じて薬となる - Just as poisonous compounds are changed into medicine

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本文 妙法蓮華経の徳 あらあら 申し開くべし、 毒薬変じて薬となる 妙法蓮華経の五字は悪変じて善と 玉泉と申す泉は石を玉となす 此の五字は凡夫を仏となす みょうほうれんげきょうの とく あらあら もうし ひらくべし、 どくやく へんじて くすりと なる みょうほうれんげきょうの ごじは あく へんじて ぜんと ぎょくせんと もうす いずみは いしを たまと なす この ごじは ぼんぷを ほとけと なす MYOHO-RENGE-KYO NO TOKU ARA-ARA MOUSHI HIRAKU BESHI, DOKUYAKU HENJITE KUSURI TO NARU MYOHO-RENGE-KYO NO GOJI WA AKU HENJITE ZEN TO GYOKUSEN TO MOUSU IZUMI HA ISHI WO TAMA TO NASU KONO GOJI WA BONPU WO HOTOKE TO NASU 内房女房殿御返事 うつぶさにょうぼうどのごへんじ UTSUBUSA NYŌBO DONO GOHENJI [白馬白鳥御書] はくばはくちょうごしょ HAKUBA HAKUCHŌ GOSHO (1422頁) 弘安3年8月 (1280年) 通解(意訳) 妙法蓮華経の功徳を大まかに申し開いて差し上げよう。 毒薬が変じて薬となる、とのたとえがあるように、妙法蓮華経の五字は、悪が変じて善となるのである。 玉泉という泉は、石を宝玉に変えると言われている。同じように、この五字は凡夫を仏に成すのである。 英語で御書 Gosho in English Let us openly and clearly outline the virtues of Myoho-renge-kyo! Just as poisonous compounds are changed into medicine, so these five characters of Myoho-renge-kyo change evil into good. The Spring of Jewels is so called because, in this spring, stones

神にそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし - Cherishes it deep in one’s heart may be likened to a ship that crosses the sea of the sufferings of birth and death.

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本文 此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし、 妙楽大師云く「一句も神に染ぬれば咸く彼岸を資く、思惟・修習永く舟航に用たり」と云云、 生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず この きょう を いちもん いっく なり とも ちょうもん して たましい に そめん ひと は しょうじ の たいかい を わたるべき ふね なるべし、 みょうらく たいし いわく「いっく も たましい に そめ ぬれば ことごとく ひがん を たすく、しゆい・しゅう しゅう ながらく しゅうこう に ゆうたり」と うんぬん、 しょうじ の たいかい を わたらん こと は みょうほうれんげきょう の ふね に あらずんば・かなう べからず KONO KYŌ WO ICHIMON IK'KU NARI TOMO CHŌMON SHITE TAMASHĪ NI SOMEN HITO WA SHŌJI NO TAIKAI WO WATARU BEKI FUNE NARUBESHI, MYŌRAKU TAISHI IWAKU「IK'KU MO TAMASHĪ NI SOMENUREBA KOTOGOTOKU HIGAN WO TASUKU, SHI-YUI・SHŪ-SHŪ NAGARAKU SHŪKŌ NI YŪ-TARI」TO UN-NUN SHŌJI NO TAIKAI WO WATARAN KOTO WA MYO-HO-RENGE-KYO NO FUNE NI ARAZUNBA・KANAU BEKARAZU 椎地四郎殿御書 しいじしろうどのごしょ SHĪ JI SHIRŌ DONO GOSHO [如度得船御書] にょととくせんごしょ NYO TO TOKU SEN GOSHO [身軽法重死身弘法御書] しんきょうほうじゅししんぐほうごしょ SHIN KYŌ HŌ JYU SHI SHIN GU HŌ GOSHO (1448頁) 弘長元年4月 (1261年) 通解(意訳) この経(法華経)を、一文一句でも聴聞して心に染める人は生死の大海を渡ることのできる船のようなものである。 妙楽大師が「誰でも一句なりとも、心身に染めるならば

師弟相違せばなに事も成べからず - If teacher and disciple are of different minds, they will never accomplish anything.

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本文 よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、 師弟相違せばなに事も成べからず よき でし を もつ とき んば してい・ぶっか に いたり・あしき でし を たくわい ぬれば してい・じごく に おつ と いえり、 してい そうい せば なにごと も なす べからず YOKI DESHI WO MOTSU TOKINBA SHITEI・BUK’KA NI ITARI・ASHIKI DESHI WO TAKUWAI NUREBA SHITEI・JIGOKU NI OTSU TO IERI, SHITEI SOUI SEBA NANIGOTO MO NASU BEKARAZU 華果成就御書 けかじょうじゅごしょ KEKA J Ō JU GOSHO (900頁) 弘安元年4月 (1278年) 通解(意訳) 師匠がよい弟子を持つのであれば、師弟は共に成仏を成し遂げることができるが、悪い弟子を養うのであれば、師弟ともに地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできないのである。 英語で御書 Gosho in English If a teacher has a good disciple, both will gain the fruit of Buddhahood, but if a teacher fosters a bad disciple, both will fall into hell. If teacher and disciple are of different minds, they will never accomplish anything. " Flowering and Bearing Grain " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 909 in April, 1278. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese よき 弟子 を もつ ときんば 師弟・仏果 に いたり・あしき 弟子 を たくはひ

妙と申す事は開と云う事なり - The character myō means to open

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本文 妙と申す事は 開と云う事なり 世間に財を積める蔵に 鍵なければ 開く事かたし 開かざれば 蔵の内の財を見ず みょう と もうす こと は かい と いう こと なり せけん に たから を つめる くら に かぎ なければ ひらく こと かたし ひらかざれば くら の うち の たから を みず MYO TO MŌSU KOTO WA KAI TO YŪ KOTO NARI SEKEN NI TAKARA WO TSUMERU KURA NI KAGI NAKEREBA HIRAKU KOTO KATASHI HIRAKAZAREBA KURA NO UCHI NO TAKARA WO MIZU 法華経題目抄 ほけきょうだいもくしょう HOKEKYO DAIMOKU SH Ō (943頁) 文永3年1月 (1266年) 通解(意訳) (南無妙法蓮華経の)「妙」とは、本来自身に備わっている仏の境涯を開くということである。世間のたとえで言えば、財宝が詰まった蔵があっても、蔵を開く鍵がなければ開くことができない。蔵が開かなければ、蔵の中の財宝を見ることはできない。 南無妙法蓮華経の妙の文字は、仏の境涯を開く「鍵」なのである。 英語で御書 Gosho in English The Great Teacher Chang-an states, “Myō means to reveal the depths of the secret storehouse.” The Great Teacher Miao-lo says of this, “To reveal means to open.” Hence the character myō means to open. If there is a storehouse full of treasures but no key, then it cannot be opened, and if it cannot be opened, then the treasures inside cannot be seen. Myō : The Character of "Nam-Myoho-Renge-Kyo." &

よきたねをあしき田にうえぬれば・たねだにもなき上かへりて損となる - If one plants good seed in a bad field, the seed itself will be ruined, and one will in turn suffer loss.

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本文 よきたねをあしき田にうえぬれば・たねだにもなき上かへりて損となる、 まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候 よき たね を あしき た に うえぬれば・たね だにも なき うえ かえりて そん と なる、 まこと の こころ なれども くよう せらるる ひと だにも・あしければ くどく と ならず、かえりて あくどう に おつる ことの そうろう YOKI TANE WO ASHIKI TA NI UENUREBA・TANE DANIMO NAKI UE KAERITE SON TO NARU, MAKOTO NO KOKORO NAREDOMO KUYŌ SERARURU HITO DANIMO・ASHIKEREBA KUDOKU TO NARAZU, KAERITE AKUDŌ NI OTUSU KOTONO SŌRŌ 窪尼御前御返事 くぼのあまごぜんごへんじ KUBO-NO-AMA GOZEN GOHENJI [善根御書] ぜんこんごしょ ZENKON GOSHO (1486頁) 弘安4年12月 (1281年) 通解(意訳) 良い種を悪い田に植えると、種がだめになるうえ、かえって自分が損をするようなものである。 真心を込めて、相手のことを思ってすることであっても、される側の人が悪ければ、かえって相手の悪行を増長させるばかりだから、功徳とはならず、かえって悪道に堕ちてしまうのである。 英語で御書 Gosho in English To illustrate, if one plants good seed in a bad field, the seed itself will be ruined, and one will in turn suffer loss. Even if one is sincere, if the person to whom one makes offerings is evil, those offerings will fail to produce benefit; rather, they will cause one to fall into the evil p