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世間のことわざにも一は万が母といへり - The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.'

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本文 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ せけんのことわざにも いちはまんがははといえり これらのどうりをしらずや、いわゆるじっそうの ことわりのはいけいをろんぜよ あながちに たしょうをしゅうすることなかれ 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 世間のことわざにも、「一は万が母」といっている。これらの道理を知らないのか。 大切なことは、その宗派の教えが、世の中の実相の真理が集約されているか、背いているかを論じなさい。けっして教義が多いか少ないかに執着してはならない。 物事を見る際に、それに対する外見や数の多少だけに執着しては、物事の真実を見抜く事はできないのである。 英語で御書 Gosho in English The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.' Do you not understand the principle behind these matters? The important thing to consider is whether or not a doctrine conforms with the principle of the true aspect of all things. Do not be blindly attached to the question of many or few !  " Conversation between  a Sage and an Unenlightened Man "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 131 1265, or 1268. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ SEKEN NO...

身の賎をもつて其の法を軽んずる事なかれ - Do not make light of a teaching just because the person who preaches it is of humble station.

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本文 仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず 只 経文を先きとすべし 身の賎をもつて其の法を軽んずる事なかれ ぶっぽうは あながち に ひと の きせん には よるべからず ただ きょうもん を さき と すべし み の せん を もって その ほう を かろんずる こと なかれ 聖愚問答抄・上 しょう ぐ もんどう しょう・じょう (481頁) 文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 相手の信仰している仏法(宗教)が正しいかどうかは、みだりに世間上の身分の上下や外見によって判断してはならない。ただ経文に照らし合わせて判断すべきである。 身分や外見が卑しいからといって、その法を軽んじてはならない。 英語で御書 Gosho in English In matters of Buddhist doctrines one cannot jump to conclusions simply on the basis of the eminence of the person involved. The words of the sutras are what must come first. Do not make light of a teaching just because the person who preaches it is of humble station. " Conversation between a Sage and an Unenlightened Man "  Part One.  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 109 in 1265, or 1277 to 1268 [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 仏法 は 強ち に 人 の 貴賎 には 依る べからず 只 経文 を 先き と すべし 身 の 賎 を もつて 其の 法 を 軽んずる 事 なかれ BUP'PO HA ANAGACHI NI HITO NO KISEN NIWA YORU BEKARAZU TADA KYOMON WO SAKI ...

世間のことわざにも一は万が母といへり - The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.'

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本文 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ せけんのことわざにもいちはまんがははといえり これらのどうりをしらずや、いわゆるじっそうのことわりのはいけいをろんぜよ あながちにたしょうをしゅうすることなかれ 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 世間のことわざにも、「一は万が母」といっている。これらの道理を知らないのか。 大切なことは、その宗派の教えが、世の中の実相の真理が集約されているか、背いているかを論じなさい。けっして教義が多いか少ないかに執着してはならない。 物事を見る際に、それに対する外見や数の多少だけに執着しては、物事の真実を見抜く事はできないのである。 英語で御書 Gosho in English The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.' Do you not understand the principle behind these matters? The important thing to consider is whether or not a doctrine conforms with the principle of the true aspect of all things. Do not be blindly attached to the question of many or few !  " Conversation between  a Sage and an Unenlightened Man "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 131 1265, or 1268. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ SEKEN NO KOTOWAZA NIM...

一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる - The Buddha nature of all living beings will be summoned and gather around you.

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本文 上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで 所有 一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、 されば一遍此の首題を唱へ奉れば 一切衆生の仏性が皆よばれて 爰に集まる時 我が身の法性の法 報 応の三身 ともに・ひかれて顕れ出ずる 是を成仏とは申すなり、 例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる 是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し かみ は ひそう の くも の うえ・しも は ならく の ほのお の そこ まで いわゆる いっさいしゅじょう の そなうる ところ の ぶっしょう を みょうほうれんげきょう とは なづくる なり、 されば いっぺん この しゅだい を となえ たてまつれば いっさいしゅじょう の ぶっしょう が みな よばれて ここ に あつまる とき わが み の ほっしょう の ほっぽうおう の さんじん とも に ひかれて あらわれ いずる これ を ぶっしょう とは もうす なり、 れいせば かご の うち に ある とり の なく とき・そら を とぶ しゅうちょう の どうじ に あつまる これ を みて かご の うち の とり も いでん と する が ごとし 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 上は想像もつかない雲の上にいるような生命の状態の者から、下は地獄の炎の底にいるような生命の状態の者まで、あらゆる者の生命に本来備えている仏性を、妙法蓮華経と名づけるのである。 そうであるから、一遍でもこの妙法蓮華経と唱へたてまつれば、あらゆる者の仏性が皆呼ばれて、そこに集まる時、自己の生命の中の法・報・応の三身(仏の生命力)がともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのであり、成仏とは、妙法蓮華経と唱えた瞬間に、即ぐに自己の仏の生命を成く(ひらく)という意味なのである。 たとえば籠の内いる鳥が鳴く時、その鳴き声を聞いて、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる、これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。 英語で御書 Gosho in English All living beings from the realm where there is neither thought nor no ...

世間のことわざにも一は万が母といへり - The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.'

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本文 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ せけんのことわざにも いちはまんがははといえり これらのどうりをしらずや、いわゆるじっそうの ことわりのはいけいをろんぜよ あながちに たしょうをしゅうすることなかれ 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 世間のことわざにも、「一は万が母」といっている。これらの道理を知らないのか。 大切なことは、その宗派の教えが、世の中の実相の真理が集約されているか、背いているかを論じなさい。けっして教義が多いか少ないかに執着してはならない。 物事を見る際に、それに対する外見や数の多少だけに執着しては、物事の真実を見抜く事はできないのである。 英語で御書 Gosho in English The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.' Do you not understand the principle behind these matters? The important thing to consider is whether or not a doctrine conforms with the principle of the true aspect of all things. Do not be blindly attached to the question of many or few !  " Conversation between  a Sage and an Unenlightened Man "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 131 1265, or 1268. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ SEKEN NO...

一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる - The Buddha nature of all living beings will be summoned and gather around you.

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本文 上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで 所有 一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、 されば一遍此の首題を唱へ奉れば 一切衆生の仏性が皆よばれて 爰に集まる時 我が身の法性の法 報 応の三身 ともに・ひかれて顕れ出ずる 是を成仏とは申すなり、 例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる 是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し かみ は ひそう の くも の うえ・しも は ならく の ほのお の そこ まで いわゆる いっさいしゅじょう の そなうる ところ の ぶっしょう を みょうほうれんげきょう とは なづくる なり、 されば いっぺん この しゅだい を となえ たてまつれば いっさいしゅじょう の ぶっしょう が みな よばれて ここ に あつまる とき わが み の ほっしょう の ほっぽうおう の さんじん とも に ひかれて あらわれ いずる これ を ぶっしょう とは もうす なり、 れいせば かご の うち に ある とり の なく とき・そら を とぶ しゅうちょう の どうじ に あつまる これ を みて かご の うち の とり も いでん と する が ごとし 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 上は想像もつかない雲の上にいるような生命の状態の者から、下は地獄の炎の底にいるような生命の状態の者まで、あらゆる者の生命に本来備えている仏性を、妙法蓮華経と名づけるのである。 そうであるから、一遍でもこの妙法蓮華経と唱へたてまつれば、あらゆる者の仏性が皆呼ばれて、そこに集まる時、自己の生命の中の法・報・応の三身(仏の生命力)がともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのであり、成仏とは、妙法蓮華経と唱えた瞬間に、即ぐに自己の仏の生命を成く(ひらく)という意味なのである。 たとえば籠の内いる鳥が鳴く時、その鳴き声を聞いて、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる、これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。 英語で御書 Gosho in English All living beings from the realm where there is neither thought nor no though...

一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる - The Buddha nature of all living beings will be summoned and gather around you.

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本文 上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで 所有 一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、 されば一遍此の首題を唱へ奉れば 一切衆生の仏性が皆よばれて 爰に集まる時 我が身の法性の法 報 応の三身 ともに・ひかれて顕れ出ずる 是を成仏とは申すなり、 例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる 是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し かみ は ひそう の くも の うえ・しも は ならく の ほのお の そこ まで いわゆる いっさいしゅじょう の そなうる ところ の ぶっしょう を みょうほうれんげきょう とは なづくる なり、 されば いっぺん この しゅだい を となえ たてまつれば いっさいしゅじょう の ぶっしょう が みな よばれて ここ に あつまる とき わが み の ほっしょう の ほっぽうおう の さんじん とも に ひかれて あらわれ いずる これ を ぶっしょう とは もうす なり、 れいせば かご の うち に ある とり の なく とき・そら を とぶ しゅうちょう の どうじ に あつまる これ を みて かご の うち の とり も いでん と する が ごとし 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 上は想像もつかない雲の上にいるような生命の状態の者から、下は地獄の炎の底にいるような生命の状態の者まで、あらゆる者の生命に本来備えている仏性を、妙法蓮華経と名づけるのである。 そうであるから、一遍でもこの妙法蓮華経と唱へたてまつれば、あらゆる者の仏性が皆呼ばれて、そこに集まる時、自己の生命の中の法・報・応の三身(仏の生命力)がともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのであり、成仏とは、妙法蓮華経と唱えた瞬間に、即ぐに自己の仏の生命を成く(ひらく)という意味なのである。 たとえば籠の内いる鳥が鳴く時、その鳴き声を聞いて、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる、これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。 英語で御書 Gosho in English All living beings from the realm where there is neither thought nor no though...

身の賎をもつて其の法を軽んずる事なかれ - Do not make light of a teaching just because the person who preaches it is of humble station.

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本文 仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず 只 経文を先きとすべし 身の賎をもつて其の法を軽んずる事なかれ ぶっぽうは あながち に ひと の きせん には よるべからず ただ きょうもん を さき と すべし み の せん を もって その ほう を かろんずる こと なかれ 聖愚問答抄・上 しょう ぐ もんどう しょう・じょう (481頁) 文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 相手の信仰している仏法(宗教)が正しいかどうかは、みだりに世間上の身分の上下や外見によって判断してはならない。ただ経文に照らし合わせて判断すべきである。 身分や外見が卑しいからといって、その法を軽んじてはならない。 英語で御書 Gosho in English In matters of Buddhist doctrines one cannot jump to conclusions simply on the basis of the eminence of the person involved. The words of the sutras are what must come first. Do not make light of a teaching just because the person who preaches it is of humble station. " Conversation between a Sage and an Unenlightened Man "  Part One.  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 109 in 1265, or 1277 to 1268 [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 仏法 は 強ち に 人 の 貴賎 には 依る べからず 只 経文 を 先き と すべし 身 の 賎 を もつて 其の 法 を 軽んずる 事 なかれ BUP'PO HA ANAGACHI NI HITO NO KISEN NIWA YORU BEKARAZU TADA KYOMON WO SAKI TO SUBESHI MI NO...

上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで... - The realm where there is neither thought nor no thought above the clouds down to the flames in the lowest depths of hell...

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本文 上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで 所有 一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、 されば一遍此の首題を唱へ奉れば 一切衆生の仏性が皆よばれて 爰に集まる時 我が身の法性の法 報 応の三身 ともに・ひかれて顕れ出ずる 是を成仏とは申すなり、 例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる 是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し かみ は ひそう の くも の うえ・しも は ならく の ほのお の そこ まで いわゆる いっさいしゅじょう の そなうる ところ の ぶっしょう を みょうほうれんげきょう とは なづくる なり、 されば いっぺん この しゅだい を となえ たてまつれば いっさいしゅじょう の ぶっしょう が みな よばれて ここ に あつまる とき わが み の ほっしょう の ほっぽうおう の さんじん とも に ひかれて あらわれ いずる これ を ぶっしょう とは もうす なり、 れいせば かご の うち に ある とり の なく とき・そら を とぶ しゅうちょう の どうじ に あつまる これ を みて かご の うち の とり も いでん と する が ごとし 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 上は想像もつかない雲の上にいるような生命の状態の者から、下は地獄の炎の底にいるような生命の状態の者まで、あらゆる者の生命に本来備えている仏性を、妙法蓮華経と名づけるのである。 そうであるから、一遍でもこの妙法蓮華経と唱へたてまつれば、あらゆる者の仏性が皆呼ばれて、そこに集まる時、自己の生命の中の法・報・応の三身(仏の生命力)がともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのであり、成仏とは、妙法蓮華経と唱えた瞬間に、即ぐに自己の仏の生命を成く(ひらく)という意味なのである。 たとえば籠の内いる鳥が鳴く時、その鳴き声を聞いて、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる、これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。 英語で御書 Gosho in English All living beings from the realm where there is neither thought nor no ...

世間のことわざにも一は万が母といへり - The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.'

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本文 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ せけんのことわざにもいちはまんがははといえり これらのどうりをしらずや、いわゆるじっそうのことわりのはいけいをろんぜよ あながちにたしょうをしゅうすることなかれ 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 世間のことわざにも、「一は万が母」といっている。これらの道理を知らないのか。 大切なことは、その宗派の教えが、世の中の実相の真理が集約されているか、背いているかを論じなさい。けっして教義が多いか少ないかに執着してはならない。 物事を見る際に、それに対する外見や数の多少だけに執着しては、物事の真実を見抜く事はできないのである。 英語で御書 Gosho in English The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.' Do you not understand the principle behind these matters? The important thing to consider is whether or not a doctrine conforms with the principle of the true aspect of all things. Do not be blindly attached to the question of many or few !  " Conversation between  a Sage and an Unenlightened Man "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 131 1265, or 1268. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ SEKEN NO KO...

籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる - When a caged bird sings, the many birds flying in the sky all gather around it at once

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本文 上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで 所有 一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、 されば一遍此の首題を唱へ奉れば 一切衆生の仏性が皆よばれて 爰に集まる時 我が身の法性の法 報 応の三身 ともに・ひかれて顕れ出ずる 是を成仏とは申すなり、 例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる 是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し かみ は ひそう の くも の うえ・しも は ならく の ほのお の そこ まで いわゆる いっさいしゅじょう の そなうる ところ の ぶっしょう を みょうほうれんげきょう とは なづくる なり、 されば いっぺん この しゅだい を となえ たてまつれば いっさいしゅじょう の ぶっしょう が みな よばれて ここ に あつまる とき わが み の ほっしょう の ほっぽうおう の さんじん とも に ひかれて あらわれ いずる これ を ぶっしょう とは もうす なり、 れいせば かご の うち に ある とり の なく とき・そら を とぶ しゅうちょう の どうじ に あつまる これ を みて かご の うち の とり も いでん と する が ごとし 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 上は想像もつかない雲の上にいるような生命の状態の者から、下は地獄の炎の底にいるような生命の状態の者まで、あらゆる者の生命に本来備えている仏性を、妙法蓮華経と名づけるのである。 そうであるから、一遍でもこの妙法蓮華経と唱へたてまつれば、あらゆる者の仏性が皆呼ばれて、そこに集まる時、自己の生命の中の法・報・応の三身(仏の生命力)がともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのであり、成仏とは、妙法蓮華経と唱えた瞬間に、即ぐに自己の仏の生命を成く(ひらく)という意味なのである。 たとえば籠の内いる鳥が鳴く時、その鳴き声を聞いて、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる、これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。 英語で御書 Gosho in English All living beings from the realm where there is neither thought...

身の賎をもつて其の法を軽んずる事なかれ - Do not make light of a teaching just because the person who preaches it is of humble station.

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本文 仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず 只 経文を先きとすべし 身の賎をもつて其の法を軽んずる事なかれ ぶっぽうは あながち に ひと の きせん には よるべからず ただ きょうもん を さき と すべし み の せん を もって その ほう を かろんずる こと なかれ 聖愚問答抄・上 しょう ぐ もんどう しょう・じょう (481頁) 文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 相手の信仰している仏法(宗教)が正しいかどうかは、みだりに世間上の身分の上下や外見によって判断してはならない。ただ経文に照らし合わせて判断すべきである。 身分や外見が卑しいからといって、その法を軽んじてはならない。 英語で御書 Gosho in English In matters of Buddhist doctrines one cannot jump to conclusions simply on the basis of the eminence of the person involved. The words of the sutras are what must come first. Do not make light of a teaching just because the person who preaches it is of humble station. " Conversation between a Sage and an Unenlightened Man "  Part One.  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 109 in 1265, or 1277 to 1268 [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 仏法 は 強ち に 人 の 貴賎 には 依る べからず 只 経文 を 先き と すべし 身 の 賎 を もつて 其の 法 を 軽んずる 事 なかれ BUP'PO HA ANAGACHI NI HITO NO KISEN NIWA YORU BEKARAZU TADA KYOMON WO SAKI ...

人の心は水の器にしたがふが如く - The human heart is like water that assumes the shape of whatever vessel it occupies

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本文 人の心は水の器に したがふが如く 物の性は月の波に動くに似たり、 故に汝 当座は信ずと いふとも 後日は必ず翻へさん 魔来り 鬼来るとも 騒乱する事なかれ ひと の こころ は みず の うつわ に したがう が ごとく もの の しょう は つき の なみ に うごく に にたり、ゆえ に なんじ とうざ は しんず と いうとも ごじつ は かならず ひるがえさん ま きたり おに きたる とも そうらん する こと なかれ 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (500頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 人の心は、水の形が器の形にしたがって変わるようなものであり、物の性質は、水上に映っている月影が、波の動きに合わせて揺らめくのに似ている。 同じように、人の心も移ろいやすいものであるから、今、法門を聞いたばかりのあなたは、しばらくは法華経を信ずると言っても、後日になってから必ず心が揺り動くであろう。 しかし、それは信心をやめさせようとする魔の仕業であるから、日々の信心にこの事を覚悟しておいて、魔が来ても鬼が来ても、その時になって騒ぎ立てるようであってはならない。 英語で御書 Gosho in English The human heart is like water that assumes the shape of whatever vessel it occupies, and the nature of beings is like the reflection of the moon undulating on the waves. Now you insist that you will be firm in this faith, but another day you are bound to waver. Though devils and demons may come to tempt you, you must not allow yourself to be distracted. " Conversation between a Sage and an Unenlightene...

南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき - If only you chant Nam-myoho-renge-kyo, then what offense could fail to be eradicated? What blessing could fail to come?

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本文 只 南無妙法蓮華経と だにも唱へ奉らば 滅せぬ罪やあるべき 来らぬ福や有るべき、 真実なり 甚深なり 是を信受すべし ただなんみょうほうれんげきょうとだにもとなえたつまつらばめっせぬつみやあるべききたらぬふくやあるべき、 しんじつなりじんじんなりこれをしんじゅすべし TADA TADA NAM-MYOHO-RENGE-KYO TO DANIMO TONAE TATEMATSURABA MES'SENU TSUMI YA ARUBEKI KITARANU FUKU YA ARUBEKI, SHINJITSU NARI JINJIN NARI KORE WO SHINJU SUBESHI 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ SHŌGU MONDŌ SHŌ ・GE (497頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) ただ南無妙法蓮華経とだけでも唱えるならば、消滅しない罪があるはずはなく、訪れて来ない幸福があるはずもない。 法華経の題目のみが唯一、真実の法であり、極めて深い法であるから、この大法を信受するべきである。 英語で御書 Gosho in English If only you chant Nam-myoho-renge-kyo, then what offense could fail to be eradicated? What blessing could fail to come? This is the truth, and it is of great profundity. You should believe and accept it. " Conversation between a Sage and an Unenlightened Man " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 130 in 1265, or 1268. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 只 南無妙法蓮華経 と だにも 唱へ 奉らば 滅せぬ 罪 や あるべき...

上は非想の雲の上.下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名く - The Buddha nature that all these beings possess is called by the name Myoho-renge-kyo.

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本文 上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで 所有 一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、 されば一遍此の首題を唱へ奉れば 一切衆生の仏性が皆よばれて 爰に集まる時 我が身の法性の法 報 応の三身 ともに・ひかれて顕れ出ずる 是を成仏とは申すなり、 例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる 是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し かみ は ひそう の くも の うえ・しも は ならく の ほのお の そこ まで いわゆる いっさいしゅじょう の そなうる ところ の ぶっしょう を みょうほうれんげきょう とは なづくる なり、 されば いっぺん この しゅだい を となえ たてまつれば いっさいしゅじょう の ぶっしょう が みな よばれて ここ に あつまる とき わが み の ほっしょう の ほっぽうおう の さんじん とも に ひかれて あらわれ いずる これ を ぶっしょう とは もうす なり、 れいせば かご の うち に ある とり の なく とき・そら を とぶ しゅうちょう の どうじ に あつまる これ を みて かご の うち の とり も いでん と する が ごとし KAMI WA HISŌ NO KUMO NO UE・SHIMO WA NARAKU NO HONŌ NO SOKO MADE IWAYURU IS'SAI-SHUJŌ NO SONAURU TOKORO NO BUS'SHO WO MYO-HO-RENGE-KYO TOWA NAZUKURU NARI, SAREBA IP'PEN KONO SHUDAI WO TONAE TATEMATSUREBA IS'SAI-SHUJŌ NO BUS'SHO GA MINA YOBARETE KOKO NI ATSUMARU TOKI WAGA MI NO HOS'SHO NO HOP'PO'O NO SANJIN TOMONI・HIKARETE ARAWARE IZURU KOREWO JŌBUTSU TOWA MŌSU NARI, REISEBA KAGO NO UCHI NI ARU TORI NO NAKU TOKI・SORA WO ...

魔来り鬼来るとも騒乱する事なかれ- Though devils and demons may come to tempt you, you must not allow yourself to be distracted.

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本文 人の心は水の器に したがふが如く 物の性は月の波に動くに似たり、故に汝 当座は信ずと いふとも 後日は必ず翻へさん 魔来り 鬼来るとも 騒乱する事なかれ ひと の こころ は みず の うつわ に したがう が ごとく もの の しょう は つき の なみ に うごく に にたり、ゆえ に なんじ とうざ は しんず と いうとも ごじつ は かならず ひるがえさん ま きたり おに きたる とも そうらん する こと なかれ HITO NO KOKORO WA MIZU NO UTSUWA NI SHITAGAU GA GOTOKU MONO NO SHOU WA TSUKI NO NAMI NI UGOKU NI NITAR, YUE NI NANJI TOUZA WA SHINZU TO IUTOMO GOJITSU WA KANARAZU HIRUGAESAN MA KITARI ONI KITARU TOMO SOURAN SURU KOTO NAKARE 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ SHOGU MONDO SHO ・GE (500頁)   文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 人の心は、水の形が器の形にしたがって変わるようなものであり、物の性質は、水上に映っている月影が、波の動きに合わせて揺らめくのに似ている。 同じように、人の心も移ろいやすいものであるから、今、法門を聞いたばかりのあなたは、しばらくは法華経を信ずると言っても、後日になってから必ず心が揺り動くであろう。 しかし、それは信心をやめさせようとする魔の仕業であるから、日々の信心にこの事を覚悟しておいて、魔が来ても鬼が来ても、その時になって騒ぎ立てるようであってはならない。 英語で御書 Gosho in English The human heart is like water that assumes the shape of whatever vessel it occupies, and the nature of beings is like the reflection of the moon undulating on the waves....

身の賎をもつて其の法を軽んずる事なかれ - Do not make light of a teaching just because the person who preaches it is of humble station.

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本文 仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず 只 経文を先きとすべし 身の賎をもつて其の法を軽んずる事なかれ 聖愚問答抄・上 (481頁) 文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 相手の信仰している仏法が正しいかどうかは、みだりに世間上の身分の上下や外見によって判断してはならない。ただ経文に照らし合わせて判断すべきである。 身分や外見が卑しいからといって、その法を軽んじてはならない。 English Gosho In matters of Buddhist doctrines one cannot jump to conclusions simply on the basis of the eminence of the person involved. The words of the sutras are what must come first. Do not make light of a teaching just because the person who preaches it is of humble station. " Conversation between a Sage  and an Unenlightened Man "  Part One.  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 109 1265.  (There opinion is  1267 - 1268) [ --- ] is liberal translation. 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき - If only you chant Nam-myoho-renge-kyo, then what offense could fail to be eradicated? What blessing could fail to come?

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本文 只 南無妙法蓮華経と だにも唱へ奉らば 滅せぬ罪やあるべき 来らぬ福や有るべき、 真実なり 甚深なり 是を信受すべし 聖愚問答抄・下 (497頁) 文永2年 (1265年) (文永4~5年説が有力) 通解(意訳) ただ南無妙法蓮華経とだけでも唱えるならば、消滅しない罪があるはずはなく、訪れて来ない幸福があるはずもない。 法華経の題目のみが唯一、真実の法であり、極めて深い法であるから、この大法を信受するべきである。 English Gosho If only you chant Nam-myoho-renge-kyo, then what offense could fail to be eradicated? What blessing could fail to come? This is the truth, and it is of great profundity. You should believe and accept it. " Conversation between a Sage  and an Unenlightened Man "  Part Two. "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 130 1265 (There main opinions is 1267 - 1268) [ --- ] is liberal translation. 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"