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をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ - Since death is the same in either case, you should be willing to offer your life for the Lotus Sutra. Think of this offering as a drop of dew rejoining the ocean, or a speck of dust returning to the earth.

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本文 願くは我が弟子等・大願を をこせ、去年 去去年(こぞ おととし)の やくびやうに 死にし 人人の・かずにも入らず、又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしとも みへず、 とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、 をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海に あつらへ・ちりを大地に うづむと をもへ ねがわくは わが でし ら・だいがん を おこせ、こぞ おととし の やくびょう に しに し ひとびと の・かず にも いらず、また とうじ・もうこ の せめ に・まぬかるべし とも みえず、 とにかく に し は いちじょう なり、そのときの なげき は とうじ の ごとし、 おなじく は・かり にも ほけきょう の ゆえ に いのち を すてよ、つゆ を たいかい に あつらえ・ちり を だいち に うずむ と おもえ NEGAWAKU WA GAWA DESHI RA・DAIGAN WO OKOSE, KOZO OTOTOSHI NO YAKUBYŌ NI SHINI SHI HITOBITO NO・KAZU NIMO IRAZU, MATA TŌJI・MOUKO NO SEME NI・MANUKARUBESHI TOMO MIEZU, TONIKAKU NI SHI WA ICHIJŌ NARI, SONO TOKI NO NAGEKI WA TŌJI NO GOTOSHI, ONAJIKU WA・KARI NIMO HOKEKYO NO YUE NI INOCHI WO SUTEYO, TSUYU WO TAIKAI NI ATSURAE・CHIRI WO DAICHI NI UZUMU TO OMOE 上野殿御返事 うえのどのごへんじ UENO DONO GOHENJI [竜門御書] りゅうもんごしょ RY ŪMON GOSHO 1561頁 弘安2年11月 (1279年) 通解(意訳) 願わくは、我が弟子たちは広宣流布という大願を起こしなさい。 去年や一作年に起こった疫病で死んだ人々の数には入らなかったにしても、現在、蒙古(モンゴル帝国)が攻めてきた時に、死を免れることができるとは思えない。とにかく、どんな形であれ、人の死というもの

過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり - The heritage of the Lotus Sutra flows within the lives of those who never forsake it in any lifetime whatsoever—whether in the past, the present, or the future.

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本文 過去に法華経の結縁 強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事 疑 有るべからず、 過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり  かこに ほけきょうの けつえん ごうじょうなる ゆえに げんざいに この きょうを じゅじす、みらいに ぶっかを じょうじゅ せん こと うたがい ある べからず、 かこ の しょうじ・げんざい の しょうじ・みらい の しょうじ・さんぜ の しょうじ に ほけきょう を はなれ きれざる を ほっけ の けつみゃくそうじょう とは いうなり KAKO NI HOKEKYO NO KETSU-EN GŌJŌ NARU YUE NI GENZAI NI KONO KYO WO JUJI SU, MIRAI NI BUK'KA WO JŌJU SEN KOTO UTAGAI ARU BEKARAZU, KAKO NO SHŌJI・GENZAI NO SHŌJI・MIRAI NO SHŌJI・SANZE NO SHŌJI NI HOKEKYO WO HANARE KIREZARU WO HOK'KE NO KETSUMYAKU-SŌJŌ TOWA IUNARI 生死一大事血脈抄 しょうじいちだいじけつみゃくしょう SH ŌJI ICHI DAIJI KETSUMYAKU SHO (1337頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 過去世において、強盛に法華経を信受してきたことが縁となって、現世でこの法華経を受持したのである。来世においても法華経と縁し、仏果を成就することは疑う余地がない。 過去、現在、未来と、三世の生死に渡って、法華経から離れず受持し続けることを、法華経の血脈相承というのである。 英語で御書 Gosho in English My followers are now able to accept and uphold the Lotus Sutra because of the strong ties they formed with it in their past existences. They are certain to obtain

未来の果を知らんと欲せば 其の現在の因を見よ - If you want to understand what results will be manifested in the future, look at the causes that exist in the present.

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本文 過去の因を知らんと欲せば 其の現在の果を見よ 未来の果を知らんと欲せば 其の現在の因を見よ かこ の いん を しらん と ほっせば その げんざい の か を みよ みらい の か を しらん と ほっせば その げんざい の いん を みよ KAKO NO IN WO SHIRAN TO HOS'SEBA SONO GENZAI NO KA WO MIYO MIRAI NOKA WO SHIRAN TO HOS'SEBA SONO GENZAI NO IN WO MIYO 開目抄・下 かいもくしょう・げ KAIMOKUSHŌ・GE (231頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 過去に自分がどのような要因(要素や原因)を作ってきたかは、現在の自分の結果(状況や状態)を見なさい。同様に、未来の自分がどんな結果になっているかを知ろうとするなら、現在の要因を見なさい。 そして、理想の自分になれるような要因を、今作っていきなさい。 英語で御書 Gosho in English If you want to understand the causes that existed in the past, look at the results as they are manifested in the present. And if you want to understand what results will be manifested in the future, look at the causes that exist in the present. " The Opening of the Eyes " Part Two "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 279 February, 1272. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  You should have create factors that you wil

苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ - Regard both suffering and joy as facts of life, and continue chanting Nam-myoho-renge-kyo, no matter what happens.

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本文 世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず、 ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ、 苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、 これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ せけん の るなん きたる とも・とりあえ たもう べからず、けんじん・しょうにん も この こと は のがれず、 ただ にょうぼう と さけ うちのみて なんみょうほうれんげきょう と・となえ たまえ、 く をば く と さとり らく をば らく と ひらき くらく とも に おもい あわせて なんみょうほうれんげきょう と うちとなえ させたまえ、 これ あに じじゅほうらく に あらずや、いよいよ ごうじょう の しんりき を いたし たまへ SEKEN NO RUNAN KITARU TOMO・TORIAE TAMOU BEKARAZU, KENJIN SHŌNIN MO KONO KOTO WA NOGEREZU, TADA NYŌBŌ TO SAKE UCHI NOMITE NAM-MYOHO-RENGE-KYO TO・TONAE TAMAE, KU WOBA KU TO SATORI RAKU WOBA WAKU TO HIRAKI KU-RAKU TOMO NI OMOI AWASETE NAM-MYOHO-RENGE-KYO TO UCHI TONAE SASE TAMAE, KORE ANI JIJYU-H OU RAKU NI ARAZUYA, IYO-IYO G Ō J Ō  NO SHIN-RIKI WO ITASHI TAMAE 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ SHIJ Ō  KINGO DONO GOHENJI [衆生所遊楽御書] しゅじょうしょゆうらくごしょ SHUJ Ō  SHO-YŪ-RAKU GOSHO (1143頁) 建治2年6月 (1276年) 通解(意訳) 世間の種々な難がおこっても、とりあってはいけない。賢人や聖人であっても、人生を生きる上で起こる困難からは逃れる事はできないのである。ただ女房と酒でも飲みかわして、南無妙法蓮華経

我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ - My disciples will be cubs of the lion king, never to be laughed at by the pack of foxes.

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本文 願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、 過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ・師子は値いがたかるべし ねがわく は わが でしら は ししおう の こ と なりて ぐんこ に わらわるる こと なかれ、 かこ おんのんごう より この かた にちれん が ごとく しんみょう を すてて ごうてき の とが を あらわせ・しし は あいがたかる べし NEGAWAKU WA WAGA DESHIRA WA SHISHI-OU NO KO TO NARITE GUNKO NI WARAWARURU KOTO NAKARE, KAKO ON-NON-GŌ YORI KONOKATA NICHIREN GA GOTOKU SHINMYŌ WO SUTETE GOUTEKI NO TOGA WO ARAWASE・SHISHI WA AI-GATAKARU BESHI 閻浮提中御書 えんぶだいちゅうごしょ EN-BUDAI-CH Ū GOSHO [師子王御書] ししおうごしょ SHISHI OU GOSHO (1589頁) 年月不明 (弘安元年説有り) 通解(意訳) 願わくは日蓮の弟子等は、師子王の子となって、群れた狐のような者たちに笑わるることがあってはならない。 過去遠遠劫より以来の日蓮のように、身命を捨てて強敵の悪(謗法)を暴き顕していきなさい。師子に値うことは難しいのである。 師子(獅子王)である日蓮大聖人の弟子であれば、弟子も師子の子となりなさい。 やがて師子となり、師弟共に師子王の心を持って、命を捨てる覚悟で邪悪と戦い、命を捨てる覚悟で民衆救済の広宣流布のために戦いなさい。 師匠は、愛する弟子を護る為ならば、あらゆる困難に立ち向かい、弟子は、師子王である師匠の心を我が心として、民衆の為に、師匠を護るために戦うのだ。 本物の獅子に遭うことが難しいように、本物の師匠と弟子とは出会い難いものなのである。 英語で御書 Gosho in English My wish is that my disciples will be cubs of the lion king, never to be laughed at by

大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる - Great events never have minor omens. When great evil occurs, great good follows.

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本文 大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、 すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、 迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、 上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりて こそ いで給いしか だいじ には しょうずい なし、だいあく おこれば だいぜん きたる、すで に だいほうぼう・くに に あり だいしょうほう かならず ひろまる べし、おのおの なに をか なげかせ たもう べき、 かしょうそんじゃ に あらず とも・まい をも・まい ぬべし、しゃりほつ に あらねども・たって おどり ぬべし、じょうぎょうぼさつ の だいち より いで たまいし には・おどり て こそ いで たまいしか DAI-JI NIWA SHŌ -ZUI NASHI, DAI-AKU OKOREBA DAI-ZEN KITARU, SUDE NI DAI-HŌBŌ・KUNI NI ARI DAI-SHŌHŌ KANARAZU HIROMARU BESHI, ONO-ONO NANI WOKA NAGEKASE TAMOU BEKI, KASHŌ-SONJA NI ARAZUTOMO・MAI WOMO・MAI NUBESHI, SHARIHOTSU NI ARANEDOMO・TAT'TE ODORI NUBESHI, JŌGYŌ-BOSATSU NO DAICHI YORI IDE TAMAISHI NIWA・ODORITE KOSO IDE TAMAISHIKA 大悪大善御書 だいあくだぜんごしょ DAI-AKU DAI-ZEN GOSHO (1300頁) 年月不明 (文永12年(1275年)2月の説有り) 通解(意訳) 大事の起こる前には小さな瑞相(ずいそう、前触れ)はない。大悪が起これば大善がくる。既に、正法である法華経を謗る(そしる)という大悪(大謗法)が国に充満しているのであるから、大正法は必ず弘まるという大善もくるのである。各々(おのおの)何を嘆くことがあろうか。迦葉尊者でなくても、舞いを舞うべきところである。舎利弗でなくても、立って踊るべきところである。 上行菩薩ら、地涌の菩薩が大地から湧出

法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経 - Myoho-renge-kyo, which are the heart of the Lotus Sutra and the eye of all Buddhas.

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本文 法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提に ひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、 わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし ほけきょう の かんじん・しょぶつ の がんもく たる みょうほうれんげきょう の ごじ・まっぽう の はじめ に いち えんぶだい に ひろまらせ たもう べき ずいそう に にちれん さきがけ したり、 わとうども にじん さんじん つづきて かしょう・あなん にも すぐれ てんだい・でんぎょう にも こえよかし HOKEKYO NO KANJIN・JŌBUSU NO GANMOKU TARU MYOHO-RENGE-KYO NO GO JI・MAPPŌ NO HAJIME NI ICHI-EN-BUDAI NI HIROMARASE TAMOU BEKI ZUISOU NI NICHIREN SAKIGAKE SHITARI, WATOUDOMO NI-JIN SAN-JIN TSUZUKITE KASHŌ・ANAN NIMO SUGURE TENDAI・DENGYŌ NIMO KOEYOKASHI 種種御振舞御書 しゅじゅおふるまいごしょ SHUJU OFURUMAI GOSHO [佐渡抄] さどしょう SADO SHŌ (910~911頁)  建治2年3月 (1276年) 通解(意訳) 法華経の肝心であり・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に広まっていくきっかけとして、日蓮がその先駆を切った。わが門下一党の者も、二陣・三陣と日蓮に続いて正法を弘通して、法華経を伝えてきた先人達である、迦葉・阿難にも勝り、天台・伝教をも超えていきなさい。 英語で御書 Gosho in English Now, at the beginning of the Latter Day of the Law, I, Nichiren, am the first to embark on propagating, throughout Jambudvīpa, the five characters of Myoho-renge-kyo, which are the heart of the Lo

浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり - There are not two lands, pure or impure in themselves. The difference lies solely in the good or evil of our minds.

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本文 衆生の心けがるれば 土もけがれ 心清ければ 土も清しとて 浄土と云ひ穢土と云うも 土に二の隔なし 只 我等が心の善悪によると見えたり、 衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し 迷う時は衆生と名け 悟る時をば仏と名けたり しゅじょう の こころ けがるれば つち も けがれ こころ きよければ つち も きよし とて じょうど と いい えど と いう も つち に ふたつ の へだたり なし ただ われら が こころ の ぜんあく に よる と みえたり、 しゅじょう と いうも ほとけ と いうも また かく の ごとし まよう とき は しゅじょう と なづけ さとる とき をば ほとけ と なづけたり SHUJŌ NO KOKORO KEGARUREBA TSUCHI MO KEGARE KOKORO KIYOKEREBA TSUCHI MO KIYOSHI TOTE JŌDO TO II EDO TO IUMO TSUCHI NI FUTATSU NO HEDATARI NASHI TADA WARERA GA KOKORO NO ZEN-AKU NI YORU TO MIETARI, SHUJŌ TO IU MO HOTOKE TO IU MO MATA KAKU NO GOTOSHI MAYOU TOKI WA SHUJŌ TO NAZUKE SATORU TOKI WOBA HOTOKE TO NAZUKETARI 一生成仏抄 いっしょうじょうぶつしょう IS'SHŌ JŌBUTSU SHŌ (384頁) 建長7年 (1255年) 通解(意訳) 「衆生の心がけがれるなら、その住む国土もけがれ、衆生の心が清ければ、土も清い」と説かれるように、浄土といっても穢土(えど、けがれた土地)といっても、国土が二つに分かれているのではない。ただ、我らの心の善悪によって、浄土とも穢土ともなるのである。 衆生というのも仏というのもまた同じ事である。人生に迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけたのである。 英語で御書 Gosho in English If the minds of living beings are impure, their land is al

教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ - The purpose of the appearance in this world of Shakyamuni Buddha, The lord of teachings, lies in his behavior as a human being.

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本文 一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、 不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ 教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ いちだい の かんじん は ほけきょう・ほけきょう の しゅぎょう は ふきょうぼん にて そうろう なり、 ふきょうぼさつ の ひと を うやまいし は・いかなることぞ きょうしゅ しゃくそん の しゅっせ の ほんかい は ひと の ふるまい にて そうらいけるぞ ICHIDAI NO KANJIN HA HOKEKYO・HOKEKYO NO SHUGYŌ WA FUKYŌ-BON NITE SŌRŌ NARI, FUKYŌ-BOSATSU NO HITO WO UYAMAISHI WA・IKANARU KOTOZO KYŌSHU SHAKUSHON NO SHUS'SEI NO HONKAI WA HITO NO FURUMAI NITE SŌRAIKERUZO 崇峻天皇御書 すしゅんてんのごしょ SUSHUN TEN-NŌ GOSHO [三種財宝御書] さんしゅざいほうごしょ SANSHU ZAIHŌ GOSHO (1174頁) 建治3年9月 (1277年) 通解(意訳) 釈尊一代の説法の肝心は法華経であり、法華経の修行の肝心が説かれているのは不軽品である。 不軽菩薩がすべての人を敬ったということは、どのような意味があるのだろうか。 教主釈尊の出世の本懐(この世に出現した究極の目的)は、人間としての振る舞いを示すことにあったのである。 不軽菩薩の実践の集いが創価学会 「学会の根本精神は人を敬うことにある。人の幸福を願い、実現していくことにある。人に尽くしていくことにある。 現代社会にあっては、他者への無関心が進む一方、利害や力関係によるつながりが優先され、”人間性”が追いやられてきた。 だからこそ、尊敬と信頼の励ましの、人間の温もりにあふれた社会を築いていくのだ」 -池田大作 英語で御書 Gosho in English The heart of the Buddha's lifetime of teachings is the Lotus Sutra, and

蘭室の友に交りて麻畝の性と成る - You have associated with a friend in the orchid room and have become as straight as mugwort growing among hemp.

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本文 鳩 化して鷹と為り 雀 変じて蛤と為る、悦しきかな 汝 蘭室の友に交りて麻畝の性と成る はと け して たか と なり すずめ へんじて はまぐり と なる、よろこばしき かな なんじ らんしつ の とも に まじりて まほ の しょう と なる HATO KE SHITE TAKA TO NARI SUZUME HENJITE HAMAGURI TO NARU, YOROKOBASHIKIKANA NANJI RANSHITSU NO TOMO NI MAJIRITE MAHO NO SHŌ TO NARU 立正安国論 りっしょうあんこくろん RIS'SHŌ-ANKOKU-RON (31頁) 文応元年7月 (1260年) 通解(意訳) 古事に「鳩化して鷹となり、雀(福良雀という、雀(すずめ)の形のような貝)が変じて蛤(はまぐり)となる」とあるように、人は善き友(善知識)と交わることで、より善い人間になることができる。 悦ばしいことに、あなたは蘭室の友(蘭の香りのように人徳の薫り高い人)に交わって感化されて、蓬(よもぎ)のように曲がりがちな性格が、真っ直ぐに育つ麻畑の中に蓬が交わって正されたように、素直で真っ直ぐな性格になれた。 蘭室の友 「 「対話は、慈悲の香りが相手を包み込むようでありたい。 弘教は押しつけでもなければ、組織のためでもない。 弘教は、相手の仏界をを礼拝することだから、最高に相手を尊敬する行為なのです。(中略) 相手を論破しようとしたり、こちらの勢力に取り込もうとするような対立的な心で弘教するのではないのです。 」 - 池田大作 英語で御書 Gosho in English The dove has changed into a hawk, the sparrow into a clam. How gratifying! You have associated with a friend in the orchid room and have become as straight as mugwort growing among hemp. " On Establishing the Correct T

師弟相違せばなに事も成べからず - If teacher and disciple are of different minds, they will never accomplish anything.

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本文 よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、 師弟相違せばなに事も成べからず よき でし を もつ とき んば してい・ぶっか に いたり・あしき でし を たくわい ぬれば してい・じごく に おつ と いえり、 してい そうい せば なにごと も なす べからず YOKI DESHI WO MOTSU TOKINBA SHITEI・BUK’KA NI ITARI・ASHIKI DESHI WO TAKUWAI NUREBA SHITEI・JIGOKU NI OTSU TO IERI, SHITEI SOUI SEBA NANIGOTO MO NASU BEKARAZU 華果成就御書 はなみじょうじゅごしょ HANA MI JŌJU GOSHO (900頁) 弘安元年4月 (1278年) 通解(意訳) 師匠がよい弟子を持つのであれば、師弟は共に成仏を成し遂げることができるが、悪い弟子を養うのであれば、師弟ともに地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできないのである。 英語で御書 Gosho in English If a teacher has a good disciple, both will gain the fruit of Buddhahood, but if a teacher fosters a bad disciple, both will fall into hell. If teacher and disciple are of different minds, they will never accomplish anything. " Flowering and Bearing Grain " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 909 in April, 1278. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄に