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蔵の財よりも身の財すぐれたり - More valuable than treasure in at storehouse are the treasures of the body

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本文 中務三郎左衛門尉は 主の御ためにも 仏法の御ためにも 世間の心ねも よかりけり・よかりけりと 鎌倉の人人の口に うたはれ給へ、 穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり なかつかささぶろうさえもんのじょう は しゅ の おんため にも ぶっぽう の おんため にも せけん の こころね も よかりけり・よかりけり と かまくら の ひとびと の くち に うたわれ たまえ、 あなかしこ・あなかしこ・くら の たから より み の たから すぐれたり み の たから より こころ の たから だいいち なり 崇峻天皇御書 すしゅんてんのうごしょ [三種財宝御書] さんしゅざいほうごしょ (1173頁) 建治3年9月 (1277年) 通解(意訳) 中務三郎左衛門尉(四条金吾)は、主君のためにも、仏法においての心がけも、世間に対する心がけについても、人間として立派な人であった、立派であったと、鎌倉の人々にいわれるようになりなさい。 おそれ多くも、蔵におさめている財産よりも、健康、技能や才能などの自分の身の財産が優れている。その身の財よりも、誠実な振舞や感謝の念などの、心の財が第一なのである。 英語で御書 Gosho in English Live so that all the people of Kamakura will say in your praise that Nakatsukasa Saburō Saemon-no-jō is diligent in the service of his lord, in the service of Buddhism, and in his concern for other people. More valuable than treasure in at storehouse are the treasures of the body,and the treasure of the heart are the most valuable of all. " The Three Kinds of Treasure " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 851 in

友にあふて礼あれ - Treating one’s friends with courtesy

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本文 友にあふて礼あれ とは 友達の一日に十度・二十度来れる人なりとも千里・二千里・来れる人の如く思ふて 礼儀いささか・をろかに思うべからず とも に おうて れい あれ とは ともだち の いちにち に じゅうど・にじゅうど きたれる ひと なり とも せんり・にせんり きたれる ひと の ごとく おもうて れいぎ いささか・おろか に おもう べからず 上野殿御消息 うえのどのごしょうそく [四徳四恩御書] しとくしおんごしょ (1528頁) 建治元年 (1275年) 通解(意訳) 友に会ったら礼儀正しくあれ、というのは、友達で一日に10回、20回と訪ねてくる人であっても、千里・二千里の遠くから訪ねてきた人のように思って、少しも礼儀をおろそかにしてはならない。 英語で御書 Gosho in English Treating one’s friends with courtesy means that, although one may encounter them ten or twenty times in the course of a single day, one greets them courteously as though they had traveled a thousand or two thousand miles to see one, never showing them indifference. " Four Virtues and Four Debts of Gratitude " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.2, p. 636 in 1275. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 友 に あふて 礼 あれ とは 友達 の 一日 に 十度・二十度 来れる 人 なりとも 千里・二千里・来れる 人 の 如く 思ふて 礼儀 いささか・をろか に 思う べからず TOMO NI OUTE REI ARE TOWA TOMODACHI NO ICHINITI NI JŪ-DO・NI-JŪ-DO KITARERU HITO NARI TOMO SEN-RI

一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし - The sufferings that all living beings undergo, all springing from this one cause—all these are Nichiren’s own sufferings.

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本文 涅槃経に云く「一切衆生 異の苦 を 受くるは 悉く 是 如来一人の 苦なり」等云云、 日蓮云く 一切衆生の 同一苦は 悉く 是 日蓮一人の苦と申すべし ねはんぎょう に いわく「いっさいしゅじょう いのく を うくる は ことごとく これ にょらい ひとり の く なり」とう うんぬん、 にちれん いわく いっさいしゅじょう の どういっく は ことごとく これ にちれん ひとり の く と もうすべし 諫暁八幡抄 かんぎょうはちまんしょう (587頁) 弘安3年12月 (1280年) 通解(意訳) 涅槃経には「一切衆生の、異なる因縁や果報によって起こる種々さまざまな苦悩は、ことごとく、これ 如来一人の 苦である」等と説かれている。 日蓮も同じく「日本国の一切衆生が、皆同じ大謗法を犯すという大罪によって受ける苦しみは、ことごとく、これ日蓮一人の苦である」と言うのである。  英語で御書 Gosho in English The Nirvana Sutra says, “The varied sufferings that all living beings undergo—all these are the Thus Come One’s own sufferings.” And Nichiren declares that the sufferings that all living beings undergo, all springing from this one cause—all these are Nichiren’s own sufferings. " On Reprimanding Hachiman " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.2, p. 934 in December, 1280. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 涅槃経 に 云く「一切衆生 異 の 苦 を 受くる は 悉く 是 如来 一人 の 苦 なり」等 云云、 日蓮 云く 一切衆生 の 同一苦 は 悉く 是 日蓮 一人 の 苦 と 申す べし NEHAN-GYŌ NI IWAKU「IS'

悪は多けれども一善にかつ事なし - Though evils may be numerous, they cannot prevail over a single great truth

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本文 日本国の 人人は 多人 なれども 体同異心 なれば 諸事 成ぜん事 かたし、 日蓮が 一類は 異体同心 なれば 人人すくなく 候へども 大事を 成じて・一定 法華経 ひろまりなんと 覚へ候、 悪は 多けれども 一善に かつ事なし、譬へば 多くの火 あつまれども 一水には きゑぬ、此の一門も 又 かくのごとし にほんこくのひとびとはたにんなれどもたいどういしんなればしょじじょうぜんことかたし、 にちれんがいちるいはいたいどうしんなればひとびとすくなくそうらえどもだいじをじょうじて・いちじょうほけきょうひろまりなんとおぼえそうろう、 あくはおおけれどもいちぜんにかつことなし、たとえばおおくのひあつまれどもいっすいにはきえぬ、このいちもんもまたかくのごとし 異体同心事 いたいどうしんじ (1463頁) 年不明、8月11日 文永末、建治、弘安説あり (1274、1275、1279年) 通解(意訳) 今の日本の人々は大人数ではあっても、体同異心(たいどういしん・人数は多いが心が一つになっていない)、何事も成し遂げる事が難しい。 日蓮の一門は異体同心(いたいどうしん・人数は少ないが心は一つである)であるから、人数は少ないけれども大事(だいじ)を成し遂げ、必ず法華経は広まるであろうと思うのである。 悪は多くても一善に勝つことはない。例えば、多くの火が集まっても、たった一水(一度の雨)で消えてしまう。この日蓮の一門もまた同様である。 英語で御書 Gosho in English Though numerous, the Japanese will find it difficult to accomplish anything, because they are divided in spirit. In contrast, although Nichiren and his followers are few, because they are different in body, but united in mind, they will definitely accomplish their great mission of widely propagating the Lotus Sutra. Though evils may be numer

世間のことわざにも一は万が母といへり - The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.'

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本文 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ せけんのことわざにもいちはまんがははといえり これらのどうりをしらずや、いわゆるじっそうのことわりのはいけいをろんぜよ あながちにたしょうをしゅうすることなかれ 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 世間のことわざにも、「一は万が母」といっている。これらの道理を知らないのか。 大切なことは、その宗派の教えが、世の中の実相の真理が集約されているか、背いているかを論じなさい。けっして教義が多いか少ないかに執着してはならない。 物事を見る際に、それに対する外見や数の多少だけに執着しては、物事の真実を見抜く事はできないのである。 英語で御書 Gosho in English The popular proverb says that ‘one is the mother of ten thousand.' Do you not understand the principle behind these matters? The important thing to consider is whether or not a doctrine conforms with the principle of the true aspect of all things. Do not be blindly attached to the question of many or few !  " Conversation between  a Sage and an Unenlightened Man "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 131 1265, or 1268. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 世間のことわざにも 一は万が母 と いへり 此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ 強ちに多少を執する事なかれ SEKEN NO KOTOWAZA NIM

先臨終の事を習うて後に他事を習うべし - [ You ] should first of all learn about death, and then about other things.

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本文 先 臨終の事を習うて 後に他事を習うべし まず りんじゅうの ことを なろうて のちに たじを なろうべし 妙法尼御前御返事 みょうほうあまごぜんごへんじ [臨終一大事] りんじゅういちだいじ (1404頁) 弘安元年7月 (1278年) 通解(意訳) 先に自分の臨終の時の事を習って、後でその他の事を習うべきである。 仏法においての三世永遠の生命観とは、今世の人生の終わりは、新たな人生の始まりを迎えようとする時であり、来世への旅路の始まりでもある。 その今世の総仕上げの最期、臨終の時に「自分の人生に悔いはない」と思えるには、人生をどう生きていくかを習ってから、その他の事を習うべきである。 英語で御書 Gosho in English [ You ] should first of all learn about death, and then about other things.  " The Importance of the Moment of Death " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.2, p. 759 July, 1278. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  The eternal view of life of the third generation in Buddhism is that the end of life in this world is about to reach the beginning of a new life, and it is also the beginning of a journey to the afterlife. In order to feel "I have no regrets in my life" at the end of the final stage of this world, I should learn how to live my life at first, and then learn other things.

さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし - Be millions of times more careful than ever.

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本文 さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし。 日蓮は少(わかき)より 今生の いのりなし 只 仏にならんと をもふ 計りなり、 されども殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり 其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。 さきざき よりも ひゃくせんまんおくばい・ごようじん あるべし。 にちれん は わかき より こんじょう の いのりなし ただ ほとけ に ならん と おもう ばかり なり、 されども とのの おんこと をば・ひまなく ほけきょう・しゃかぶつ・にってんに もうす なり そのゆえ は ほけきょう の いのち を つぐ ひと なれば と おもう なり 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ [世雄御書] せおうごしょ (1169頁) 建治3年 (1277年) 通解(意訳) 以前より百千万億倍、用心していきなさい。 日蓮は若い時から、自分の今生の繁栄を祈ったことはない。ただ仏になろうと思うばかりであった。 しかし、あなた方弟子達の事は、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っている。 それは、あなた方が法華経の命を継ぎ、後世に伝えるという使命がある人だと思うからである。 英語で御書 Gosho in English [ You must ] be millions of times more careful than ever. Since childhood, I, Nichiren, have never prayed for the secular things of this life but have single-mindedly sought to become a Buddha. Of late, however, I have been ceaselessly praying for your sake to the Lotus Sutra, Shakyamuni Buddha, and the god of the sun, for I am convinced that you are a person who can inherit the soul of the Lotus Sutra. " The Hero of the World " "The Writ

いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん - Giving a body that will decay uselessly for the sake of the Lotus Sutra

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本文 日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、 いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事 あに 石に金を・かふるにあらずや にちれん は にほんこく・とうい・とうじょう・あわのくに・うみべ の せんだら が こ なり、 いたずらに・くちん み を ほけきょう の おん ゆえ に すて まいらせん こと あに いし に きん を・かうる に あらずや 佐渡御勘気抄 さどごかんきしょう (891頁) 文永8年10月 (1271年) 通解(意訳) 日蓮は、日本国の東国の片田舎の者で、安房の国東条の郷・海辺の旃陀羅(せんだら・漁師)の子であり、名誉も財産も地位もない身である。 むなしく朽ちるであろう、この身を法華経のために捨てることができるのは、ちょうど石を金にかえるようなものではないか。 英語で御書 Gosho in English Nichiren is the son of a chandāla family who lived near the sea in Tōjōin Awa Province, in the remote countryside of the eastern part of Japan. How could giving a body that will decay uselessly for the sake of the Lotus Sutra not be exchanging rocks for gold? " Banishment to Sado " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 202 in October, 1271. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Chandāla : fisherman  Gosho in Japanese 日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、 いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事 あに 石に金を・かふるにあらずや NICHIREN WA NIHONKOKU・TŌI・TŌJŌ・AWA NO

皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり - Were they not Bodhisattvas of the Earth, they could not chant the daimoku.

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本文 いかにも今度・信心をいたして 法華経の行者にてとをり、日蓮が一門と なりとをし給うべし、 日蓮と同意ならば 地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、 経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、 末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり いかにも こんど・しんじん を いたして ほけきょう の ぎょうじゃ にて とおり、にちれん が いちもん と なりとおし たもうべし、にちれん と どうい ならば じゆ の ぼさつ たらんか、じゆ の ぼさつ に さだまりなば しゃくそん くおん の でし たる こと あに うたがわんや、 きょう に いわく「われ くおん より この かた これら の しゅ を きょうけ す」とは これ なり、 まっぽう に して みょうほうれんげきょう の ごじ を ひろめん もの は なんにょ は きらう べからず、みな じゆ の ぼさつ の しゅつげん に あらずんば となえがたき だいもく なり 諸法実相抄 しょほうじっそうしょう (1360頁) 文永10年5月 (1273年) 通解(意訳) どんなことがあっても、今世で信心を起こしたなら、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となり、師弟の道を貫き通しなさい。 日蓮と同じ志しならば、地涌の菩薩(じゆ の ぼさつ)であろうか。地涌の菩薩であると定まっているのであれば、釈尊の久遠の弟子であるということをどうして疑うことができようか。 法華経従地涌出品第十五に「これらの菩薩は、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのは、このことである。 末法において、妙法蓮華経の五字を弘める者は、老若男女問わず、分け隔てをしてはならない。皆それぞれの使命を持って、地涌の菩薩として出現した人々でなければ、唱えることのできない題目だからである。  英語で御書 Gosho in English Now, no matter what, strive in faith and be known as a votary of the Lotus Sutra, and remain my disciple for the rest of your life. If

人のものををしふると申すは車のおもけれども油を ぬりてまわり - Teaching another something is the same as oiling the wheels of a cart so that they turn even though it is heavy

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本文 仏にやすやすとなる事の候ぞ・をしへ まいらせ候はん、 人の ものを をしふる と 申すは 車のおもけれども 油を ぬりてまわり・ふねを水にうかべて ゆき やすき やうに をしへ候なり、 仏になりやすき事は 別のやう候はず、 旱魃に かわけるものに 水をあたへ・寒冰に こごへたるものに 火を あたふる が ごとし ほとけ に やすやす と なる こと の そうろう ぞ・おしえ まいらせ そうらわん、 ひと の もの を おしうる と もうす は くるま の おもけれども あぶら を ぬりて まわり・ふね を みず に うかべて ゆきやすき ように おしえ そうろう なり、 ほとけ に なりやすき こと は べつ の よう そうらわず、 かんばつ に かわける もの に みず を あたえ・かんひょう に こごえたる もの に ひ を あたうる が ごとし 上野殿御返事 うえのどのごへんじ [須達長者御書] すだつちょうじゃごしょ (1574頁) 弘安3年12月 ( 1280年) 通解(意訳) 仏に安々と成れる方法を、教えて差し上げよう。 人がものを教えるというのは、車が重かったとしても、油を塗って車輪の回りをよくし、船を水に浮かべて、岸辺に行きやすくなるように教えるようなものである。 仏に成りやすい方法というのは、特別なことではない。干ばつの時、喉の渇いた者に水を与え、寒さに凍えた者に火を与えるようにすることである。 英語で御書 Gosho in English I will teach you how to become a Buddha easily. Teaching another something is the same as oiling the wheels of a cart so that they turn even though it is heavy, or as floating a boat on water so that it moves ahead easily. The way to become a Buddha easily is nothing special. It is the same as giving water to a thirsty person in a time of drou

謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ - Reverently make this teaching your own, and transmit it as an axiom of faith for future generations.

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本文 此の法門を申すには必ず魔出来すべし 魔競わずは正法と知るべからず、 第五の巻に云く「行解 既に勤めぬれば 三障四魔 紛然として競い起る 乃至 随う可らず 畏る可らず 之に随えば 将に人をして 悪道に向わしむ 之を畏れば 正法を修することを妨ぐ」 等云云、 此の釈は 日蓮が身に当るのみならず 門家の明鏡なり 謹んで習い伝えて 未来の資糧とせよ この ほうもんを もうす には かならず ま しゅったい すべし ま きそわずは しょうほうと しる べからず、 だいごの まきに いわく「ぎょうげ すでに つとめぬれば さんしょうしま ふんぜんとして きそいおこる ないし したがう べからず おそる べからず これに したがえば まさに ひとをして あくどうに むかわしむ これを おそれば しょうほうを しゅうすることを さまたぐ」とう うんぬん この しゃくは にちれんが みに あたる のみならず もんけの めいきょうなり つつしんで ならい つたえて みらいの しりょうとせよ 兄弟抄 きょうだいしょう (1087頁) 文永12年4月 (1275年) 通解(意訳) この法門を説けば、必ず魔が現れる。魔が競い起こらなければ、正法とは言えないのである。 天台大師の摩訶止観・第五巻には、「仏法の修行と理解が進んでくると、三障四魔が紛然として競い起こる。(乃至=中略の意味)しかし、決してしたがってはならない。おそれてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。 摩訶止観のこの内容は、日蓮の身にあてはまるばかりでなく、我が日蓮仏法の門家一同にも明鏡のように当てはまるものである。これをわきまえて、謹んで習い、次の世代に伝えて、未来の法華経の行者にとっての、修行の資料・糧としなさい。 英語で御書 Gosho in English If you propagate it, devils will arise without fail. If they did not, there would be no way of knowing that this is the correct teaching. One passage from the same volume reads:

冰は水より出でたれども水よりもすさまじ - Ice is made of water, but it is colder than water.

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本文 いよいよ強盛の御志あるべし、 冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、 同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり いよいよ ごうじょう の おんこころざし あるべし、 こおり は みず より いでたれども みず よりも すさまじ、あおき ことは あい より いでたれども・かさぬれば あい よりも いろ まさる、 おなじ ほけきょう にては・おわすれども こころざし を かさぬれば・たにん よりも いろ まさり りしょう も あるべきなり 乙御前御消息 おとごぜんごしょうそく [身軽法重抄] しんきょうほうじゅうしょう (1221頁) 建治元年8月 (1275年) 通解(意訳) いよいよ強盛な信心を起こしていきなさい。氷は水からできるが、水よりも冷たい。 青い色は、藍という草から生まれるが、重ねて染めれば、もとの藍の葉よりも色が鮮やかになる。 同じ法華経ではあっても、信心を重ねていくならば、他人よりも生命の輝きが増し、利益もあらわれてくるのである。 英語で御書 Gosho in English Strengthen your resolve more than ever. Ice is made of water, but it is colder than water. Blue dye comes from indigo, but when something is repeatedly dyed in it, the color is better than that of the indigo plant. The Lotus Sutra remains the same, but if you repeatedly strengthen your resolve, your color will be better than that of others, and you will receive more blessings than they do. " The Supremacy of the Law " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol

二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし - Among all the 2,994,830 women of Japan, you should think of yourself as number one.

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本文 日本国と申すは女人の国と申す国なり、 天照太神と申せし女神のつきいだし給える島なり、 此の日本には男 十九億九万四千八百二十八人・ 女は 二十九億九万四千八百三十人なり  (中略) 二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし にほんこくと もうすは にょにんの くにと もうす くになり、 てんしょうだいじんと もうせし にょしんの つきいだしたまえる しまなり、 このにほんには おとこ 19おく9まん4せん8ひゃく28にん・ おんなは 29おく9まん4せん8ひゃく30にん なり(ちゅうりゃく) 29おく9まん4せん8ひゃく30にんの にょにんのなかの だいいちなりと おぼしめすべし 日眼女造立釈迦仏供養事 にちげんにょぞうりゅうしゃかぶつくようのこと (1188頁)  弘安2年2月 (1279年) 通解(意訳) 日本国というのは女人の国ともいえる国である。 天照太神という女神の築かれた島である。 この日本国には男は199万4828人・女は299万4830人いる。 (中略) (法華経だけが、女人成仏を説いている唯一の法であるから)法華経を信受している女性は、299万4830人の中でも一番優れた女性なのだと思っていきなさい。 英語で御書 Gosho in English This country of Japan may be called a women’s country.  These islands were created by the Sun Goddess.  In this land of Japan there are 1,994,828 men and 2,994,830 women. ( Omit )  Among all the 2,994,830 women of Japan, you should think of yourself as number one. " Concerning the Statue of Shakyamuni Buddha Fashioned by Nichigen-nyo " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.2, p. 812 - 813 in February, 1279

一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる - The Buddha nature of all living beings will be summoned and gather around you.

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本文 上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで 所有 一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、 されば一遍此の首題を唱へ奉れば 一切衆生の仏性が皆よばれて 爰に集まる時 我が身の法性の法 報 応の三身 ともに・ひかれて顕れ出ずる 是を成仏とは申すなり、 例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる 是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し かみ は ひそう の くも の うえ・しも は ならく の ほのお の そこ まで いわゆる いっさいしゅじょう の そなうる ところ の ぶっしょう を みょうほうれんげきょう とは なづくる なり、 されば いっぺん この しゅだい を となえ たてまつれば いっさいしゅじょう の ぶっしょう が みな よばれて ここ に あつまる とき わが み の ほっしょう の ほっぽうおう の さんじん とも に ひかれて あらわれ いずる これ を ぶっしょう とは もうす なり、 れいせば かご の うち に ある とり の なく とき・そら を とぶ しゅうちょう の どうじ に あつまる これ を みて かご の うち の とり も いでん と する が ごとし 聖愚問答抄・下  しょうぐもんどうしょう・げ (498頁)  文永2年又は文永5年 (1265年、1268年) 通解(意訳) 上は想像もつかない雲の上にいるような生命の状態の者から、下は地獄の炎の底にいるような生命の状態の者まで、あらゆる者の生命に本来備えている仏性を、妙法蓮華経と名づけるのである。 そうであるから、一遍でもこの妙法蓮華経と唱へたてまつれば、あらゆる者の仏性が皆呼ばれて、そこに集まる時、自己の生命の中の法・報・応の三身(仏の生命力)がともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのであり、成仏とは、妙法蓮華経と唱えた瞬間に、即ぐに自己の仏の生命を成く(ひらく)という意味なのである。 たとえば籠の内いる鳥が鳴く時、その鳴き声を聞いて、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる、これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。 英語で御書 Gosho in English All living beings from the realm where there is neither thought nor no thou

法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず - It could never come about that the prayers of the practitioner of the Lotus Sutra would go unanswered.

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本文 大地は ささば はづるるとも 虚空を つなぐ者は ありとも・潮の みちひぬ事は ありとも日は西より出づるとも・ 法華経の行者の祈りの かなはぬ事は あるべからず だいち は ささば はずるる とも おおぞら を つなぐ もの は ありとも・しお の みちいぬ こと は ありとも ひ は にし より いづる とも・ ほけきょう の ぎょうじゃ の いのり の かなわぬ こと は ある べからず 祈祷抄 きとうしょう (1352頁) 文永9年 (1272年) 通解(意訳) 大地を刺して外れる事があっても、大空をつなぎ合わせる者があっても、 潮の満ち干きがなくなることがあっても、太陽が西の空から昇るようなことがあっても、 法華経の行者の祈りが叶わないことは絶対にない。 英語で御書 Gosho in English Though one might point at the earth and miss it, though one might bind up the sky, though the tides might cease to ebb and flow and the sun rise in the west, it could never come about that the prayers of the practitioner of the Lotus Sutra would go unanswered. " On Player "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 345 in 1272. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 大地は ささば はづるる とも 虚空 を つなぐ 者 は あり とも・潮 の みちひぬ 事 は あり とも 日 は 西 より 出づる とも・ 法華経 の 行者 の 祈り の かなはぬ 事 は ある べからず DAICHI WA SASABA HAZURURU TOMO ŌZORA WO TSUNAGU MONO WA ARI TOMO・SHIO  NO MICHI-INU KOTO WA ARI TOMO HI WA NISHI

9周年: 或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり - The 9th Anniversary: The belief of some is like fire while that of others is like water.

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本文 法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、 聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、 水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり ほけきょう を しんずる ひと あり・あるいは ひ の ごとく しんずる ひと も あり・あるいは みず の ごとく しんずる ひと も あり、 ちょうもん する とき は・もえたつ ばかり おもえども・とおざかり ぬれば・すつる こころ あり、 みず の ごとく と もうす は・いつも・たいせず しんずる なり 上野殿御返事 うえのどのごへんじ [水火二信抄] すいかにしんしょう (1544頁) 建治4年2月 (1279年) 通解(意訳) 法華経を信ずる人がいる。あるいは火のように信ずる人もあり、あるいは水の流れるように信ずる人もいる。 火のように信ずる人というのは、法華経の法門を聴いたその時は、燃え立つような信心が沸き起こるように思うけれども、時が経つにつれて遠ざかると、その発心した心を忘れてしまうのである。  水のように信ずる人というのは、常に後退せずに信ずる人をいうのである。  謝辞 ~ 日替わり御書 9周年記念 日替わり御書 DAILY-GOSHO を読んで頂き、本当にありがとうございます。 2015年3月16日から始めた「日替わり御書 - Daily Gosho」が、今年で9周年を迎えることができました。 一人でもいいから、御書に触れていただくお手伝いができればいいな、という思いから始めた日替わり御書ですが、おかげさまで、DAILY-GOSHOは120万アクセスを達成しました。 今後とも、「日替わり御書 - Daily Gosho」をよろしくお願いします。 2024年3月16日 日替わり御書  twitter @daily-gosho 追伸: 引き続き、北極圏と南極大陸からのアクセスをお待ちしております! 英語で御書 Gosho in English Today there are people who have faith in the Lotus Sutra. The belief of some is like fire while that of others is like water. When the f

凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり - Ordinary people keep in mind the words “earnest resolve” and thereby become Buddhas.

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本文 仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり ほとけになりそうろうことはぼんぷはこころざしともうすもじをこころえてぼんぷになりそうろうなり 白米一俵御書 はくまいいっぴょうごしょ [事理供養御書] じりくようごしょ (1596頁)  年月不明 通解(意訳) 仏に成るということは、凡夫は「志」という文字を心得て仏に成るのである。 英語で御書 Gosho in English As for the matter of becoming a Buddha, ordinary people keep in mind the words “earnest resolve” and thereby become Buddhas. " The Gift of Rice " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1125 Unknown Year. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 仏 に なり 候 事 は 凡夫 は 志ざし と 申す 文字 を 心へて 仏 に なり 候なり HOTOKE NI NARI SŌRŌ KORO WA BONPU WA KOKOROZASHI TO MŌSU MOJI WO KOKOROETE HOTOKE NI NARI SŌRŌ NARI 白米 一俵 御書 HAKUMAI IP'PYO GOSHO [事 理 供養 御書] JI RI KUYŌ GOSHO 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

金珠女 - The Woman Who Gave a Piece of Gold

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本文 金珠女は金銭一文を木像の薄と為し 九十一劫金色の身と為りき 其の夫の金師は今の迦葉 未来の光明如来是なり こんじゅにょ は きんせん いちもん を もくぞう の はく と なし きゅうじゅういっこう こんじき の み と なりき その おとこ の こんし は いま の かしょう みらい の こうみょうにょらい これ なり 乗明聖人御返事 じょうみょうしょうにんごへんじ [金珠女御書] こんじゅにょごしょ (1012頁) 建治3年4月   (1277年) 通解(意訳) 金珠女は、金箔を施した木像の顔の一部が剥がれていたのを見て、貧相な身でありながら、物乞いをして集めた黄金の銭一文を供養し、錬金師であった夫は、その黄金を使って木造を修復した。この功徳によって、金珠女は91劫(1劫 =人間界での43億2千万年)の長い間、金色の身となった。その夫の鍛金師は釈尊在世の時代には迦葉尊者であり、未来の光明如来である。さらに、二人は生まれ変わっても常に夫婦として結ばれていたのである。 例えわずかであっても、心から法華経に供養すれば、莫大な功徳が必ず顕れるのである。 英語で御書 Gosho in English Long ago, the so-called Woman Who Gave a Piece of Gold donated a gold coin to be used to gild a wooden statue [of a Buddha. Because of the benefits she received], for ninety-one long kalpas she was reborn with a golden body. The goldsmith at that time, who became her husband, was reborn as Mahākāshyapa, who in the future, the Buddha predicted, will become a Buddha named Light Bright Thus Come One. " The Woman Who Gave a Piece of Gold "  "The Writings of Nichire

白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり - The neighing of the white horses is the sound of our voices chanting Nam-myoho-renge-kyo.

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本文 白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、 この声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし はくばの なくは われらが なんみょうほうれんげきょうの こえなり、 この こえを きかせたもう ぼんてん・たいしゃく・にちがつ・してんとう いかでか いろを まし ひかりを さかんに なし たまわざるべき、いかでか われらを しゅごし たまわざるべき と・つよづよと・おぼしめすべし 曾谷殿御返事 そやどのごへんじ [輪陀王御書] りんだおうごしょ (1065頁) 弘安2年8月 (1279年) 通解(意訳) 白馬がいななくのは、私達の南無妙法蓮華経の声である。 この唱題の声を聞かれた梵天、帝釈、日月、四天等など(諸天善神)が、どうして色つやを増し、威光を強くされないことがあろうか。どうして我等を守護しないわけがあろうかと、強く強く思っていきなさい。 英語で御書 Gosho in English The neighing of the white horses is the sound of our voices chanting Nam-myoho-renge-kyo. When Brahmā, Shakra, the gods of the sun and moon, the four heavenly kings, and the others hear this sound, how could they fail to take on a healthy color and shine with a brilliant light? How could they fail to guard and protect us? We should be firmly convinced of this! " King Rinda " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 989 - 990 in August, 1279. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 白馬 の なく

譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し - This is similar to a tarnished mirror that will shine like a jewel when polished.

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本文 衆生と云うも 仏と云うも 亦 此くの如し 迷う時は 衆生と名付け 悟る時をば 仏と名けたり、 譬えば 闇鏡も 磨きぬれば 玉と見ゆるが如し、 只今も 一念無明の迷心は 磨かざる鏡なり 是を磨かば 必ず 法性真如の明鏡と 成るべし、 深く信心を発して 日夜朝暮に 又 懈らず磨くべし 何様にしてか磨くべき 只 南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを 是を磨くとは云うなり しゅじょうと いうも ほとけと いうも また かくの ごとし まよう ときは しゅじょうと なづけ さとる ときをば ほとけと なづけたり、 たとえば あんきょうも みがき ぬれば たまと みゆるが ごとし、 ただいまも いっしんむみょうの めいしんは みがかざる かがみなり これを みがかば かならず ほっしょうしんにょの みょうきょうと なるべし、 ふかく しんじんを おこして にちやちょうぼに また おこたらず みがくべし いかようにしてか みがくべき ただ なんみょうほうれんげきょうと となえたてまつるを これを みがくとは いうなり 一生成仏抄 いっしょうじょうぶつしょう (384頁) 建長7年 (1255年) 通解(意訳) 衆生といっても仏といっても、また同様に2つの隔てがあるわけではない。迷う時は衆生と名付け、悟った時には仏と名付けるのである。 たとえば、曇っている鏡であっても、磨けば玉のように見えるようなものである。 一念無明の迷信とは、今の悩みや苦しみ等によって迷っている心の状態であり、まだ磨いていない鏡のようなものである。この鏡を磨けば、必ず仏性という本来生命に備わっている仏の生命(法性真如:仏界)を開き、明るく輝く鏡となるのである。 深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、また怠らずに磨いていきなさい。 では、どのように磨けばよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これを(生命という鏡を)磨くというのである。 英語で御書 Gosho in English It is the same with a Buddha and an ordinary being. When deluded, one is called an ordinary being, but when enlightened, one is called a Buddha. This is s