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8月, 2016の投稿を表示しています

全く仏子を禁むるには非ず 唯 偏に謗法を悪むなり - I certainly have no intention of censuring the sons of the Buddha. My only hatred is for the act of slandering the Law.

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本文   全く仏子を禁むるには非ず 唯 偏に謗法を悪むなり、 夫れ釈迦の以前 仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後 経説は則ち其の施を止む 立正安国論 (30頁) 文応元年(1260年)7月 通解(意訳)   (日蓮が念仏者や邪義の者を断罪せよと言うのは、)まったく仏子を禁ずるということではない。 ただひとえに謗法を憎むのである。 釈迦以前の仏教では、その罪を斬ったといっても、能忍(釈尊)以後の経説は、その布施を止めさせることを断罪と呼ぶのである。     English Translations " On Establishing the Correct Teaching for the Peace of the Land "   I certainly have no intention of censuring the sons of the Buddha. My only hatred is for the act of slandering the Law. According to the Buddhist teachings, prior to Shakyamuni slanderous monks would have incurred the death penalty. But since the time of Shakyamuni, the One Who Can Endure, the giving of alms to slanderous monks is forbidden in the sutra teachings.   July, 1260. " The Writings of Nichiren Daishonin ", Vol.1, p. 6 [ --- ] is liberal translation. 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」   第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted...

浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり - It also states that, if the minds of living beings are impure, their land is also impure, but if their minds are pure,so is their land.There are not two lands,pure or impure in themselves.The difference lies solely in the good or evil of our minds.

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本文   浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり   一生成仏抄(384頁) 建長7年(1255年) 通解(意訳)   浄土といっても穢土(えど、けがれた土地)といっても、国土が二つに分かれているのではない。ただ、我らの心の善悪によって、浄土とも穢土ともなるのである。  衆生というのも仏というのもまた同じ事である。人生に迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけたのである。     English Translations " On Attaining Buddhahood in This Lifetime "    It also states that, if the minds of living beings are impure, their land is also impure, but if their minds are pure, so is their land. There are not two lands, pure or impure in themselves. The difference lies solely in the good or evil of our minds.  It is the same with a Buddha and an ordinary being. When deluded, one is called an ordinary being, but when enlightened, one is called a Buddha.   Month unclear, 1255 "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 4 [ --- ] is liberal translation. 参考文献:「御書をひもとく」「英語で学ぶ御書」   第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The...

随とは事理に随順するを云うなり - “Respond” means to respond to and comply with actuality and principle.

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本文   御義口伝に云く 随とは事理に随順するを云うなり 喜とは自他共に喜ぶ事なり   御義口伝 随喜品二箇の大事 第一 妙法蓮華経随喜功徳の事 (761頁) 通解(意訳)   御義口伝には、次のように仰せである。  随喜(ずいき)の随とは、「事理に随順すること 」 を随という。 「事理に随順する(じり に ずいじゅん する)」とは、法華経の法理で功徳を得る事 (事理) に素直に従う( 順して随う=随順する)、すなわち、法華経の肝心である「 南無妙法蓮華経」の 法理を実直に信じて題目を唱えて、自分も実行し他人にも勧める「自行化他の信心 」 を実直に実践して、功徳を得る事を随というのである。  随喜の喜とは、「自他共に喜ぶこと 」 を喜という。 「自他ともに喜ぶ」とは、信心によって得られる功徳や幸福境涯を共に分かち合い、素直に喜ぶ事である。  随喜とは、素直に信心に励み、功徳で得られる幸福境涯を人にも勧め、歓喜を共に分かち合って喜ぶ事なのである。     English Translations " The Record of The Orally Transmitted Teachings " Chapter Eighteen: The Benefits of Responding with Joy Two important points   The Record of the Orally Transmitted Teachings says: “Respond” means to respond to and comply with actuality and principle. “Joy” means that oneself and others together experience joy.  " The Record of The Orally Transmitted Teachings " Part 2, p. 146 [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)   These meanings, Practice an...

我等は穢土に候へども心は霊山に住べし - Though we live in the impure land, our hearts reside in the pure land of Eagle Peak.

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本文   天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ   千日尼御前御返事[雷門鼓御書] (1316頁) 弘安元年7月(1278年)7月 通解(意訳)   天の月ははるか遠くに離れているけれども、月が上れば大地の池にはすぐに影が浮かび、雷門の鼓は万里の遠くにあっても打てばすぐに聞こえる。あなたの身体は佐渡の国にいらっしゃるけれども、心はこの国に来られている。  仏に成る道もこのような事である。我等は穢土に住んではいるが、心は霊山浄土に住んでいる。お顔を拝見したからといって、なんになるだろう。 あなたのお心遣いの、その心こそ大切なのである。     English Translations " The Drum at the Gate of Thunder "   Though the moon is forty thousand yojanas [ feet ] high in the heavens, its reflection appears instantly in a pond on earth; and the sound of the drum at the Gate of Thunder is immediately heard a thousand, ten thousand ri [ miles ] in the distance. Though you remain in Sado, your heart has come to this province. The way of attaining Buddhahood is just like this. Though we live in the impure land, our hearts reside in the pure land of Eagle Peak. Merely seeing each other’s face would in itself be insignificant. I...

地獄の苦みぱっときへて - the sufferings of hell will vanish instantly.

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本文   涅槃経に 転重軽受 と申す法門あり、先業の 重き 今生につきずして 未来に地獄の苦を受くべきが 今生にかかる重苦に値い候へば 地獄の苦み ぱっときへて 死に候へば 人天・三乗・一乗の益を うる事の候 転重軽受法門 (1000頁) 文永8年(1271年)10月 通解(意訳)   涅槃経に「転重軽受(てんじゅうきょうじゅ、重きを転じて軽く受く)」という教えがある。過去世で犯してきた罪や宿業が重くて今世だけでは消えず、来世でも地獄の苦しみを受けるべきだったところが、法華経の行者となった事で、その罪業が軽くなって今世に出てきたのである。これを信心で乗り越えることで、地獄の苦しみはぱっと消えて、今世で全ての罪業を消し去ることができるのである。さらに、信心を持って死んだなら、様々な妙法の利益を受けることができるのである。     English Translations " Lessening One’s Karmic Retribution "    The Nirvana Sutra teaches the principle of lessening one’s karmic retribution. If one’s heavy karma from the past is not expiated within this lifetime, one must undergo the sufferings of hell in the future, but if one experiences extreme hardship in this life [because of the Lotus Sutra], the sufferings of hell will vanish instantly.  And when one dies, one will obtain the blessings of the human and heavenly worlds, as well as those of the three vehicles and the one vehicle.  October, 1271. " The Writings of Nichi...

此の繩にとりつかば 我れ岸の上に引き登さん - “If you take hold of this rope, I will pull you up to the top of the embankment.”

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本文   高き岸の下に人ありて 登ること あたはざらん(能わざらん)に 又岸の上に人ありて 繩をおろして 此の繩にとりつかば 我れ岸の上に引き登さんと 云はん(言わん)に 引く人の力を疑い 繩の弱からん事をあやぶみて 手を納めて 是を とらざらん が 如し 争か(いかでか)岸の上に登る事を うべき(得べき)、若し(もし)其の詞(ことば)に随ひて 手をのべ 是をとらへば 即ち 登る事を うべし 持妙法華問答抄 (464頁) 弘長3年(1263年) 通解(意訳)   (法華経を信じないというのは、)たとえば高い岸壁の下に人がいて、その岸壁を登ることができないでいる時に、また岸壁の上に人がいて、繩を下ろして、「この繩に捕まれば、私が岸の上に引いて登らせよう」というのに、引く人の力を疑い、繩が弱くて切れるのではないかと危ぶんで、手を出さず、縄を取らないようなものである。  相手の力と縄の強さを信じずに、どうして岸の上に登ることができようか。 もしその人の言葉に随って、手を差し出し縄をつかめば、即ちに登ることができるのである。 (このように、まず法華経のことを信じることから、即身成仏への直道を得ることができる (以信得入・い しん とく にゅう、信を以って仏への直道へ入る事を得る) のである。)     English Translations " Question and Answers about Embracing the Lotus Sutra "   suppose that a person is standing at the foot of a tall embankment and is unable to ascend. And suppose that there is someone on top of the embankment who lowers a rope and says,  “If you take hold of this rope, I will pull you up to the top of the embankment.”  If the person at the bottom begins to doubt that the ot...

みなの御心は 水のごとし 信のよはきは にごるがごとし、信心の・いさぎよきはすめるがごとし - Our minds are like the water. Faith that is weak is like muddy water, while faith that is brave is like clear water.

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本文   其の上は 私に計り申すに及ばず候 叶ひ叶はぬは 御信心により候べし 全く日蓮がとがに あらず、水すめば 月うつる   風ふけば 木ゆるぐごとく・みなの御心は 水のごとし 信のよはきは にごるがごとし、信心の・いさぎよきは すめるがごとし 木は道理のごとし・風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ   日厳尼御前御返事 (1262頁) 弘安3年(1280年)10月 通解(意訳)   信心の功徳について、これを自分勝手の解釈で御本尊の功徳を推し量ってはならない。 日蓮が、あなたの願いをいくら祈ったところで、願いが叶うか叶わないかは、結局は全てあなたの御信心によるものであり、全く日蓮のせいではない。 例えば、水が澄めば月はきれいに映り、風が吹けば木の枝が揺れるように、人の心は水のようなものであ。 信人が弱いのは、水が濁っているようなものであり、信心が強く潔いのは、水が澄んでいるようなものである。 木は仏法の道理のようなものであり、風がその木を揺り動かすことは、朝夕の勤行・唱題を怠らず、信心を深めていく努力と、現実と向き合って、願いが成就するよう努力をする事である。 「題目をあげていればなんとかなる」と、題目ばかり唱え、御本尊に頼ってばかりで、自分から木を揺るがそうと努力を怠れば、木は揺れることはない。 自分の信心を深め、行学を実践し、仏法の道理である「南無妙法蓮華経」の御本尊を揺り動かすような実践の信心と同時に、現実を変える努力を実践するところに、御本尊の功徳が顕れるのだと、しっかり心得ていきなさい。     English Translations " Reply to the Lay Nun Nichigon "    Now there is no need to attempt to surmise yourself how things will go.  Whether or not your prayer is answered will depend on your faith   ;[if it is not] I will in no way be to blame.  When water is clea...