自ら真の道を行ずと謂いて 人間を軽賎する者有らん - they are practicing the true way, despising and looking down on all humankind.
本文 法華経に云く「悪世の中の比丘は 邪智にして 心 諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心 充満せん、或は 阿練若に納衣にして空閑に在り 自ら真の道を行ず と謂いて 人間を軽賎する者有らん、利養に貪著するが故に白衣 の与めに法を説いて 世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん、乃至常に大衆の中に在つて我等を毀らんと 欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び 余の 比丘衆に向つて誹謗して 我が悪を説いて 是れ邪見の人・外道の論議 を説く と 謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼 其の身に入つて 我を罵詈し毀辱せん、濁世の悪比丘 は仏の方便・随宜所説の法を知らず悪口して顰蹙し数数・擯出せられん」 立正安国論(21頁) 文応元年(1260年)7月 通解(意訳) (末法においては悪知識が充満し、法華経の行者を迫害すると説いてある文証について) 法華経には「末法悪世の中の僧侶は、間違った法が正しいという邪義の知識しか知らず、心がひねくれていて 、未だに「成仏とは仏の境涯を成く(ひらく)」という理解も得ていないのに、「自分は仏に成れる(なれる) ための悟りを得ている」と思い、わがままな 心が充満している。あるいは人里から離れた静かな山寺な どに袈裟・衣を著けて閑静な座にいて、自分は仏法の真の道を行じていると思いこんで、一般世間の生活を営んでいる人間を軽んじ、賤しむであろう。 彼等は、自らの私腹を肥やすために、立派な衣の権威を借りて、在家の人たちのために説法して、世間の人からはまるで六神通を得た羅漢の如く尊敬されている。そして常に大衆の中心にいて、我々正法をたもつ者をそしるために、国王や大臣・権威者や諸々の僧侶等に、正法の行者を誹謗し、悪い点を作り上げて『この人は邪な思想を持っており外道の論議を説いている」というであろう』と言いくるめるのである。濁った悪世の末法においては、様々な恐怖がある。邪宗邪義がこれらの国王・大臣の身に入いて、正法の行者をののしったり、謗り、はずかしめたりするであろう。末法にこれらの悪比丘たちは方便・権教が仏の機根に随って説いたものであることを知らないでこれに執着し、かえって正法たる法華経の行者の悪口をいい、ひんしゅくし、たびたび正法の行者を追い出すであろう」とある。 ...