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9月, 2023の投稿を表示しています

異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり - This spiritual bond is the basis for the universal transmission of the ultimate Law of life and death.

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本文 総じて日蓮が弟子檀那・自他彼此の心なく 水魚の思を成して異体同心にして 南無妙法蓮華経と唱え奉る処を 生死一大事の血脈とは云うなり、 しかも今 日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か そうじて にちれん が でし だんな・じた ひし の こころ なく すいぎょ の おもい を なして いたいどうしん に して なんみょうほうれんげきょう と となえ たてまつる ところ を しょうじいちだいじ の けつみゃく とは いうなり、 しかも いま にちれん が ぐつう する ところ の いわゆる これ なり、もし しからば こうせんるふ の だいがん も かなうべき もの か 生死一大事血脈抄 しょうじいちだいじけつみゃくしょう (1337頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 総じて日蓮の弟子・壇家の者達が、自分と他人、あちらとこちら等と、別け隔てる心がなく、水と魚が切っても切れない関係のように、皆それぞれが「広宣流布のために」という想いを同じくして、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを、生死一大事の血脈というのである。 しかも今、日蓮が弘通する日蓮仏法の一番の肝要は、この事なのである。 もし、弟子達がこの通りに実践してしていけば、広宣流布の大願も叶うに違いない。 異体同心の団結が勝負を決する 「異体同心というのは、現代で言えば『組織』ということです。 『異体』というのは、ひとそれぞれ、姿も立場も、状況も使命も違う。しかし『心』は──信心は『同心』でいきなさいというのです。 『異体異心』では、バラバラです。『同体同心』というのは無理やり、形も姿も心まで統一しようというのです。ファシズムであり、自由はない。だれもついてこられず、格好だけ合わせている。結局、『同体異心』になってしまう」 ─池田大作 英語で御書 Gosho in English All disciples and lay supporters of Nichiren should chant Nam-myoho-renge-kyo with the spirit of many in body but one in mind, transcending all differences among themselves to beco

各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすとも をづる事なかれ - Each of you should summon up the courage of a lion king and never succumb to threats from anyone.

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本文 各各 師子王の心を取り出して・いかに 人 をどすとも をづる 事なかれ、 師子王は百獣に をぢず・師子の子・又かくのごとし、 彼等は野干の ほうるなり 日蓮が一門は師子の吼るなり おのおの ししおう の こころ を とり いだして いかに ひと おどす とも おずる こと なかれ、 ししおう は ひゃくじゅう に おじず・ しし の こ・また かくのごとし、 かれら は やかん の ほうる なり にちれん が いちもん は しし の ほうる なり 聖人御難事 しょうにんごなんじ (1190頁) 弘安2年10月 (1279年) 通解(意訳) 日蓮と我が弟子ら一門は、一人ひとりが百獣の王ライオン(師子王)の心を取り出して、どのように人に脅されようとも、決して恐れる事があってはならない。 ライオン(師子王=師匠)は、他のどんな動物(百獣)をも恐れない。師子の子(弟子)もまた同じである。 彼ら(法華経を非難する人々)は、野犬やキツネらのような畜生が吠えているのと同じである。日蓮と我が弟子ら一門は、師弟が一体となって吼えているのである。 英語で御書 Gosho in English Each of you should summon up the courage of a lion king and never succumb to threats from anyone. The lion king fears no other beast, no do its cubs. Slanders are like barking foxes, but Nichiren's followers are like roaring lions. " On Persecutions Befalling the Sage " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 997 in October, 1279. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Lion king: Teacher.  Cubs: Disciples. Gosho in

白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり - The neighing of the white horses is the sound of our voices chanting Nam-myoho-renge-kyo.

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本文 白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、 この声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし はくばの なくは われらが なんみょうほうれんげきょうの こえなり、 この こえを きかせたもう ぼんてん・たいしゃく・にちがつ・してんとう いかでか いろを まし ひかりを さかんに なし たまわざるべき、いかでか われらを しゅごし たまわざるべき と・つよづよと・おぼしめすべし 曾谷殿御返事 そやどのごへんじ [輪陀王御書] りんだおうごしょ (1065頁) 弘安2年8月 (1279年) 通解(意訳) 白馬がいななくのは、私達の南無妙法蓮華経の声である。 この唱題の声を聞かれた梵天、帝釈、日月、四天等など(諸天善神)が、どうして色つやを増し、威光を強くされないことがあろうか。どうして我等を守護しないわけがあろうかと、強く強く思っていきなさい。 英語で御書 Gosho in English The neighing of the white horses is the sound of our voices chanting Nam-myoho-renge-kyo. When Brahmā, Shakra, the gods of the sun and moon, the four heavenly kings, and the others hear this sound, how could they fail to take on a healthy color and shine with a brilliant light? How could they fail to guard and protect us? We should be firmly convinced of this! " King Rinda " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 989 - 990 in August, 1279. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 白馬 の なく

其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ - I entrust you with the propagation of Buddhism in your province

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本文 其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、 仏種は縁に従つて起る 是の故に 一乗を説くなるべし その くに の ぶっぽう は きへん に まかせ たてまつり そうろうぞ、 ぶっしゅ は えん に よって おこる その ゆえに いちじょう を とく なるべし 高橋殿御返事 たかはしどのごへんじ [米穀御書] べいこくごしょ (1445頁) 年月不明 (建治~弘安が有力) (1275~78年) 通解(意訳) その国の広宣流布は、あなたにお任せする。仏種という、本来誰もが持っている仏の生命は、この妙法を誠実に語るという、妙法との縁によって起こるものである。この故に、”諸教で最も優れた法華経の法(一乗)”を説くのである。 "友情と信頼の拡大" 人の心は、他者との触れ合いという「縁」によって大きく変わることができる。ありのままの人間として心を開き、声をかけていくのだ。  その瞬間から、お互いの生命が、より強く、より豊かに変わり始める。 -池田大作 英語で御書 Gosho in English I entrust you with the propagation of Buddhism in your province. It is stated that “the seeds of Buddhahood sprout as a result of conditions, and for this reason they preach the single vehicle.” " Properties of Rice " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1117 The main opinion is from 1275 to 1278. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  "Expanding friendship and trust" People's minds be able to change greatly on the fellowship with others. Open yo

南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしや - You asked whether one can attain Buddhahood only by chanting Nam-myoho-renge-kyo

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本文 南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候、然れども同じ一句の中にも肝心にて候、 南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候・一部の肝要八軸の骨髄にて候。 人の身の五尺・六尺のたましひも一尺の面にあらはれ・一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候、 又日本と申す二の文字に六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍万宝・一もかくる事候はず収めて候、 其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字・一字ももれず・かけずおさめて候 なんみょうほうれんげきょうと もうす は これ いちぐ いっけ にて そうろう、しかれども おなじ いっく の なか にも かんじん にて そうろう、 なんみょうほうれんげきょう と となうる ばかり にて ほとけ に なるべしや と、この ごふしん しょせん に そうろう・いちぶ の かんよう はちじく の こつずい にて そうろう。 ひと の みの ごしゃく・ろくしゃく の たましい も いっしゃく の おもて に あらわれ・いっしゃく の かお の たましい も いっすん の め の うち に おさまり そうろう、 また にほん と もうす に の もじ に ろくじゅう ろく か こく の じんちく・た はた・じょうげ・きせん・しちちん まんぽう・ひとつ も かくる こと そうらわず おさめて そうろう、 その ごとく なんみょうほうれんげきょう の だいもく の うち には いちぶ はちかん・にじゅう はちほん・ろくまん きゅうせん さんびゃく はちじゅう よん の もじ・いちじ も もれず・かけず おさめて そうろう 妙法尼御前御返事 みょうほうあまごぜんごへんじ [一句肝心事] いっくかんじんのこと (1402頁) 弘安元年7月 (1278年) 通解(意訳) 南無妙法蓮華経というのは、法華経のうちのたった一句一偈である。しかしながら、同じ法華経の一句の中でも、最も肝心の一句である。 南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏になることができるのかとのご質問であるが、このご質問こそ最も大切なことである。法華経一部の肝要であり、八巻の骨髄なのである。 人の身は五尺・六尺(約150cm~180cm)であっても、魂はその一尺(約30cm)の表面に現われ、一尺の顔に現われ

水は一なれども果報に随つて別別なり - Though the water is the same, it appears differently according to one’s karmic reward from the past.

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本文 此の経の文字は 皆悉く 生身妙覚の御仏なり 然れども 我等は肉眼なれば文字と見るなり、 例せば 餓鬼は恒河を火と見る 人は水と見る 天人は甘露と見る 水は一なれども 果報に随つて別別なり この きょうの もじは みな ことごとく しょうじんみょうかくの みほとけ なり しかれども われらは にくがん なれば もじと みる なり、 れいせば がきは ごうかを ひ と みる ひとは みず と みる てんにん は かんろ と みる みず は いち なれども かほうに したがって べつべつ なり 曾谷入道殿御返事 そやにゅうどうどのごへんじ (1025頁) 文永12年3月 (1275) 通解(意訳) この法華経の文字は、一字一字のすべてがことごとく、生身の釈迦仏と同じであり、そのまま自身の仏性と同じなのである。しかしながら、我等は凡夫の肉眼なので、ただの文字だと見るのである。 例えば、餓鬼界の境涯の者は恒河(ガンジス河)を火と見て恐れる。人界の境涯の者は水と見る。天界の境涯の者は甘露と見る。 水は同じひとつのものであるけれども、見る者の境涯の違いによって、見え方は別々なのである 英語で御書 Gosho in English The characters of this Sutra are all without exception living Buddhas of perfect enlightenment. But because we have the eyes of ordinary people, we see them as characters. For instance, hungry spirits perceive the Ganges River as fire, human beings perceive it as water, and heavenly beings perceive it as amrita. Though the water is the same, it appears differently according to one’s karmic reward from the past.  " Reply to the Lay Priest Soya " "The

強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ - I vowed to summon up a powerful and unconquerable desire for the salvation of all beings and never to falter in my efforts.

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本文 我等程の小力の者・須弥山はなぐとも 我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも 我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも 法華経は 一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、 今度・強盛の菩提心を・をこして 退転せじと願しぬ。 われら ほど の しょうりき の もの しゅみせん は なぐ とも われら ほど の むつう の もの かれくさ を おうて ごうか には やけず とも  われら ほど の むち の もの ごうしゃ の きょうぎょう をば よみ おぼう とも ほけきょう は いっく いちげ も まつだい に たもち がたし と とかるる は これ なる べし、 こんど・ごうじょう の ぼだいしん を・おこして たいてん せじ と がんしぬ。 開目抄・上 かいもくしょう・じょう [人本尊開顕書] [人本尊開顕の書] にんほんぞんかいけんのしょ (200頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) われらほどの小力の者が、須弥山のごとき大山を投げるとも、 われらほどの神通のない者が、燃えやすい乾草を背負って劫火のなかをくぐり、しかも焼けないことがあろうとも、 われらほどの無智の者が、数え切れない多数の経々を読みおぼえることができるとしても、 法華経は一句一偈ですら、末法に持つことは困難であると説かれているのは、宝塔品にある六難九易の事なのである。 この事に気づいたので、今度こそ強盛の大菩提心を起こして、いかなる大難に遭っても、絶対に退転しないと誓願したのである。 英語で御書 Gosho in English Persons like myself who are of paltry strength might still be able to lift Mount Sumeru and toss it about; persons like myself who are lacking in supernatural powers might still shoulder a load of dry grass and yet remain unburned in the fire at the end of the kalpa of decline; and persons like mysel

虚空に鳥の飛跡あり人此をみず - There are trails in the sky where birds fly, but people cannot recognize them

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本文 闇の中に影あり 人 此をみず 虚空に鳥の飛跡あり 人 此をみず・大海に魚の道あり 人 これをみず 月の中に四天下の人物 一もかけず 人 此をみず、而りと いへども 天眼は此をみる。 日女御前の御身の内心に 宝塔品 まします 凡夫は見ずと いへども釈迦・多宝・十方の諸仏は御らんあり、日蓮 又 此を すいす・あら たうとし・たうとし やみの なかに かげあり ひと これを みず こくうに とりの とぶ あと あり ひと これをみず・たいかいに さかなの みち あり ひと これを みず つきの なかに してんげの じんぶつ ひとりも かけず ひと これを みず、しかりと いえども てんがんは これを みる。 にちにょ ごぜんの おんみの ないしんに ほうとうぼん まします ぼんぷは みずと いえども しゃか・たほう・じっぽうの しょぶつは ごらんあり、にちれん また これを すいす・あら とうとし・とうとし 日女御前御返事 にちにょごぜんごへんじ [嘱累品等大意] るいぞくほんとうたいい (1250頁) 弘安元年6月 (1278年) 通解(意訳) 闇の中に影があっても、人はこれを見ることはできない。空には鳥の飛ぶ道があるが、人はこれを見ることはできない。大海に魚の泳ぐ道があるが、人はこれを見ることが出来ない。月の中に世界中の人々が一人もかけず映っているが、人はこれを見ることはできないのである。しかし天眼はこれを見ることができる。 日女御前の御身の内に、厳然と宝塔品(=仏界、仏の生命)は存在している。人の眼(凡夫の眼)には見えなくても、釈迦・多宝・十方の諸仏は御覧になっているのである。日蓮もまた、この事を推察するのである。尊い事である、尊い事である。  英語で御書 Gosho in English There are shadows in the darkness, but people cannot discern them. There are trails in the sky where birds fly, but people cannot recognize them. There are paths in the sea along which fish swim, but people cannot perceive them

百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる - Alantern lighting up a place that has been dark for a hundred, a thousand, or ten thousand years.

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本文 この経の題目は習い読む事なくして大なる善根にて候、 悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、 水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる この きょうの だいもくは ならい よむ こと なくして だいなる ぜんこんにて そうろう、 あくにんも にょにんも ちくしょうも じごくのしゅじょうも じっかい ともに そくしんじょうぶつ と とかれて そうろうは、 みずの そこなる いしに ひの あるが ごとく ひゃくせんまんねん くらき ところにも ともしびを いれぬれば あかくなる 妙法尼御前御返事 みょうほうあまごぜんごへんじ [一句肝心事] いっくかんじんのこと (1403頁) 弘安元年7月 (1278年) 通解(意訳) 法華経の題目とは、内容を習い読み、理解して唱えるのではなくとも、大きな善根を積むことになるのである。 悪人も女人も、畜生界や地獄界の衆生も、一切衆生が等しく備えている十界と共に、題目を唱えた瞬間に即身成仏ができると説かれていることは、 水の底に沈んでいる石でも、こすれば火を発するように、また百千万年の間、闇に閉ざされていた所でも、燈火を入れれば明るくなるようなものである。 英語で御書 Gosho in English Even though one neither reads nor studies the sutra, chanting the title alone is the source of tremendous good fortune. The sutra teaches that women, evil men, and those in the realms of animals and hell—in fact, all the beings of the Ten Worlds—can attain Buddhahood in their present form. [This is an incomparably greater wonder than] fire being produced by a stone taken from the bottom of a river, or a lantern lighting up a plac

情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり - Even insentient plants and trees share as one a friend’s joys and sorrows.

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本文 松 栄れば 柏 悦ぶ 芝 かるれば 蘭 なく 情無き 草木すら 友の喜び 友の歎き 一つなり まつ さかえば かしわ よろこぶ しば かるれば らん なく じょう なき そうもく すら とも の よろこび とも の なげき ひとつ なり 光日上人御返事 こうにちしょうにんごへんじ (934頁) 弘安4年8月   (1281年) 通解(意訳) 松が栄えれば柏が悦ぶ、芝が枯れれば蘭は泣くといわれる。 非情の草木ですら、友の喜び、友の歎きは一体なのである。 英語で御書 Gosho in English When the pine flourishes, the cypress is overjoyed; when grasses wither, orchids weep. Even insentient plants and trees share as one a friend’s joys and sorrows.  " Reply to the Honorable Kōnichi " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.2, p. 964 in August, 1281. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 松 栄れば 柏 悦ぶ 芝 かるれば 蘭 なく 情 無き 草木すら 友の 喜び 友の 歎き 一つ なり MATSU SAKAEBA KASHIWA YOROKOBU SHIBA KARUREBA RAN NAKU JŌ NAKI SŌ-MOKU SURA TOMO NO YOROKOBI TOMO NO NAGEKI HITOTSU NARI 光日 上人 御返事 KŌNICHI SHŌNIN GOHENJI 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道 - The dragon king’s daughter attained Buddhahood, it opened up the way to attaining Buddhahood for all women of later ages

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本文 挙一例諸(こ いち れい しょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし こいちれいしょ と もうして りゅうにゅ が じょうぶつ は まつだい の にょにん の じょうぶつ おうじょう の みち を ふみ あけたる なるべし 開目抄・下  かいもくしょう・げ [人本尊開顕書] [人本尊開顕の書] にんほんぞんかいけんのしょ (233頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 「一つを挙げて諸々に通じる例とする」と申して、竜女の成仏は末法の女人の成仏・往生の道を踏みあけたものである。 英語で御書 Gosho in English “One example that stands for all the rest.” When the dragon king’s daughter attained Buddhahood, it opened up the way to attaining Buddhahood for all women of later ages. " The Opening of the Eyes " Part two. "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 268 in February, 1272. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 挙一例諸(こ いち れい しょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし KO-ICHI-REI-SHO TO MOUSHITE RYŪNYO GA JŌBUTSU WA MATSUDAI NO NYONIN NO JŌBUTSU NO MICHI WO FUMIAKETARU NARUBESHI 開目抄・下  KAIMOKUSHŌ・GE [人本尊開顕書] [人本尊開顕の書] NIN HONZON KAIKEN NO SHO 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Re

八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり - The heavenly gods will surely protect one who is unbending before the eight winds.

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本文 賢人は 八風と申して 八のかぜに をかされぬ を 賢人と申すなり、 利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、 をを心は 利あるに・よろこばず・をとろうるに なげかず等の事なり、 此の 八風に をかされぬ人をば 必ず天はまほらせ給うなり けんじんは はっぷう と もうして はち の かぜ に おかされぬ を けんじん と もうすなり、 り・すい・き・よ・そう・しき・く・らくなり、 おおこころ は り ある に・よろこばず・おとろうる に なげかず とう の こと なり、 この はっぷう に おかされぬ ひと をば かならず てん は まもらせ たもう なり 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ [八風抄] はっぷうしょう (1151頁) 建治3年 (1277年) 通解(意訳) 賢人とは八風といって、八種の風に犯されないのを賢人というのである。八風とは利(利益を得る)・衰(衰える/損をする)・毀(非難される)・誉(誉められる)・称(讃えられる)・譏(謗られる)・苦(苦しむ)・楽(楽しむ)である。 大まかな意味は、世間的な利益を得たり、楽しい事が起きても喜ばず、逆に損をしたり、苦しい事が起きた事を嘆かない、ということである。この八風に犯されない人を、諸天善神は守られるのである。 多少の事で一喜一憂せず、何があっても動じない事が大切である。  英語で御書 Gosho in English Worthy persons deserve to be called so because they are not carried away by the eight winds: prosperity, decline, disgrace, honor, praise, censure, suffering, and pleasure. They are neither elated by prosperity nor grieved by decline. The heavenly gods will surely protect one who is unbending before the eight winds.  " The Eight Winds " "The Writings of Nichiren Dai

南無妙法蓮華経と申す女人の・をもう子に・あわずという事はなし - It could never happen that a woman who chants Nam-myoho-renge-kyo would fail to be reunited with her beloved child.

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本文 大地はささば・はづるとも・日月は地に堕ち給うとも・しをはみちひぬ世はありとも・花はなつにならずとも・南無妙法蓮華経と申す女人の・をもう子に・あわずという事はなしととかれて候ぞ だいち は ささば・はずる とも・にち がつ は ち に おち たもう とも、しを は みちいぬ よ は ありとも・はな は なつ に ならず とも・なんみょうほうれんげきょう と もうす にょにん の・おもう こ に・あわず と いう こと は なし と とかれて そうろうぞ 上野尼御前御返事 うえのあまごぜんごへんじ [聖人御書] しょうにんごしょ (1576頁) 弘安4年1月 (1281年) 通解(意訳) 大地をさして外れることがあっても、日や月が地に落ちても、潮の満ち干がなくなる時代はあっても、花は夏に実にならなくても、南無妙法蓮華経と唱える女性が愛しく思う子に会えないということはない。 悩みに寄り添い希望の光を 友の声に深く耳を傾け、一緒に悩み祈る。この誠実な対話から希望の光を広げゆくのだ。 - 池田大作 英語で御書 Gosho in English Even if one were to point at the earth and miss it, even if the sun and moon should fall to the ground, even if an age should come when the tides cease to ebb and flow, or even if flowers should not turn to fruit in summer, it could never happen that a woman who chants Nam-myoho-renge-kyo would fail to be reunited with her beloved child. " The Gift of Clear Sake "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1092 in January, 1281. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (lib

師子吼とは仏の説なり - The lion’s roar (shishi ku) is the preaching of the Buddha.

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本文 師子吼とは 仏の説なり 説法とは法華 別にしては南無妙法蓮華経なり、 師とは師匠授くる所の妙法、子とは弟子受くるところの妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり ししく とは ほとけ の せつ なり せっぽう とは ほっけ べつに して は なんみょうほうれんげきょう なり、 し とは ししょう さずくる ところ の みょうほう、し とは でし うくる ところ の みょうほう・く とは してい ともに となうる ところ の おんじょう なり 御義口伝 勧持品十三箇の大事 第五 作師子吼の事 おんぎくでん かんじぼんじゅうさんこのだいじ だいご さししくのこと ONGIKUDEN KANJIBON JU-SAN-KO NO DAIJI DAI-GO SASHISHIKU NO KOTO (748頁) 通解(意訳) 師子吼(しし く)とは、仏の説法である。説法とは法華経の事であり、つまり「南無妙法蓮華経を説く事」である。 師子吼の「師(し)」とは、師匠である仏が弟子に授ける(教える)妙法であり、「子(し)」とは、弟子が受ける(習う)妙法であり、「吼(く、ほえるの意味)」とは、師匠と弟子(師弟)が、南無妙法蓮華経と共に唱える、題目の音声の事という意味である。 「師子吼」とは、厳しい現実社会のうえで、弟子が師匠の教えの通りに実践し、師匠と共に「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、百獣の王であるライオン(獅子:師子)のように堂々と正義を吼えて、弟子が自ら「師匠のため、広宣流布のために」と立ち上がり、戦い抜いていく事である。 英語で御書 Gosho in English The lion’s roar (shishi ku) is the preaching of the Buddha. The preaching of the Law means the preaching of the Lotus Sutra, or the preaching of Nam-myoho-renge-kyo in particular. The first shi of the word shishi, or “lion” [which means “teacher”], is the Wonderful Law that is passed on by the tea

法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし - Rice that nourishes the votary of the Lotus Sutra must be rice of the utmost compassion

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本文 法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、 一切衆生を利益するなればなり、 故に仏舎利変じて米と成るとは是なるべし ほっけのぎょうじゃをやしなうはじひのなかのだいじひのべいこくなるべし、 いっさいしゅじょうをりやくするなればなり、 ゆえにぶっしゃりへんじてこめとなるとはこれなるべし 高橋殿御返事 たかはしどのごへんじ [米穀御書] べいこくごしょ (1445頁) 年月不明 (建治~弘安が有力) (1275~78年) 通解(意訳) 法華経の行者に供養する米穀(食物)は、大慈悲の米となるであろう。なぜなら、法華経の行者は、一切衆生を妙法の功力によって恩恵を与える(=利益する)、広宣流布の実践をされているからである。  仏舎利は、一切衆生を法力によって恩恵を与えたと言われている。「仏舎利変じて米と成る」とは、その仏舎利が変じて、米穀はあらゆる衆生を利益するのである。 *寿司の米などを「シャリ」と呼ぶのは、この「仏舎利」が由来のようです。 英語で御書 Gosho in English Rice that nourishes the votary of the Lotus Sutra must be rice of the utmost compassion, because it benefits all living beings. This is what is meant by the Buddha’s relics turning into rice. " Properties of Rice " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1117 The convincing opinion is 1275 - 1278. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  As for calling rice of the sushi;"Shari", these Buddha's relics;"仏舎利 Bud-sha-ri " are like the origin. Go

二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり - Then two, three, and a hundred followed, chanting and teaching others.

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本文 日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、 未来も又しかるべし、是 あに地涌の義に非ずや、 剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし にちれん ひとり はじめ は なんみょうほうれんげきょう と となえしが、ににん・さんにん・ひゃくにん と しだい に となえ つたうる なり、 みらい も また しかるべし、これ あに じゆ の ぎ に あらずや、 あまつさえ こうせんるふ の とき は にほん いちどう に なんみょうほうれんげきょうと となえん こと は だいち を まと と する なるべし 諸法実相抄 しょほうじっそうしょう (1360頁) 文永10年5月 (1273年) 通解(意訳) はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人・三人・百人と次第に唱え伝えてきたのである。 未来もまたそうであろう。これが地涌の義ではないだろうか。 そればかりか広宣流布のときは、あらゆる人達が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものである。 英語で御書 Gosho in English At first only Nichiren chanted Nam-myoho-renge-kyo, but then two, three, and a hundred followed, chanting and teaching others. Propagation will unfold this way in the future as well. Does this not signify “emerging from the earth”? At the time when the Law has spread far and wide, the entire Japanese nation will chant Nam-myoho-renge-kyo, as surely as an arrow aimed at the earth cannot miss the target. " The True Aspect of All Phenomena "  "The Writings of Nichiren Daisho

広宣流布大願をも成就す可きなり - will fulfill his great vow to broadly proclaim and propagate the Lotus Sutra.

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本文 法華経の行者は 信心に退転無く 身に詐親 無く・一切法華経に其の身を任せて 金言の如く修行せば、 慥に後生は申すに及ばず 今生も息災延命にして 勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり ほけきょう の ぎょうじゃ は しんじん に たいてん なく み に きしん なく・いっさい ほけきょう に その み を まかせて きんげん の ごとく しゅぎょう せば、 たしか に ごしょう は もうす に およばず こんじょう も そくさいえんめい に して しょうみょう の だいかほう を え・こうせんるふ だいがん をも じょうじゅ す べき なり 祈祷経送状 きとうきょうそうじょう (1357頁) 文永10年正月 (1273年) 通解(意訳) 法華経の行者は、信心においては退転なく、行動や振舞いにおいては偽り親しむことなく誠実に、一切を法華経にその身を任せて、金言のとおりに修行するならば、たしかに後生(未来世)はいうまでもなく、今生においても息災延命で、勝れた大果報を得て、広宣流布という大願をも成就することができるであろう。 英語で御書 Gosho in English Practitioner of the Lotus Sutra remains unwavering in faith, free of all false alliances, entrusting himself wholeheartedly to the Lotus Sutra and practicing in accordance with the Buddha’s golden words, he will without fail be able to prevent disaster and prolong his life in this present existence, to say nothing of in the life to come. Splendid recompense will be his, and he will fulfill his great vow to broadly proclaim and propagate the Lotus Sutra.  " Letter Sent with the

かかる濁世には互につねに・いゐあわせてひまもなく 後世ねがわせ給い候へ - In this defiled age, you should always talk together and never cease to pray for your next life.

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本文 設い身命に及ぶとも退転すること莫れ。 富木・三郎左衛門の尉・河野辺・大和阿闍梨等・殿原・御房達 各各 互に 読聞け まいらせさせ給え、 かかる濁世には 互に つねに・いゐあわせて ひまもなく 後世 ねがわせ給い候へ たとい しんみょうに およぶとも たいてん すること なかれ。 とき・さぶろうざえもんのじょう・かわのべ・やまとあじゃり とう・とのばら・ごぼう たち おのおの たがいに よみきけ まいらせ させたまえ、 かかる じょくせ には たがいに つねに・いいあわせて ひまもなく ごせ ねがわせ たまい そうらえ 法華行者逢難事 ほっけ ぎょうじゃ ほうなん じ (965頁) 文永11年1月 (1274年) 通解(意訳) たとえ大難が身命に及ぶ事があっても、決して退転してはならない。 富木常忍(とき じょうにん)・三郎左衛門尉(さぶろう ざえもんのじょう=四条金吾)・河野辺入道(かわのべ にゅうどう)・大和阿闍梨(やまと あじゃり)等の殿達や御房達、 おのおのお互いに読み聞かせてさしあげなさい。 このような濁世には互いにつねに話し合って、ひまなく後世を願うようにしなさい。 直接会って対話する「膝詰めの対話」 ただ一人でもいい。 その一人の人に全力で法を説き、体験を語り、広布のこと、 人生のことを心から話し合っていけばよいのだ。 二人でもいい、御本尊の話をして、感激し合って帰る座談会にしてほしい。 三人もくれば、”大勢”というべきである。 -戸田城聖 英語で御書 Gosho in English Even if it should cost you your lives, you must never discard your faith. Toki, Saburō Saemon-no-jō, Kawanobe, Āchārya Yamato, and the rest of you, gentlemen and priests, should read this letter to one another and listen. In this defiled age, you should always talk together and never cease to pray for your next life. "

いつとなく日月にかげをうかぶる身なり - Whatever the time, I will be reflected in the sun and the moon.

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本文 日蓮こいしく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををがませ給え、 いつとなく日月にかげをうかぶる身なり にちれん こいしく・おわしせば つねに いずる ひ ゆうべに・いずる つきを おがませ たまえ、 いつとなく にちがつ に かげを うかぶる み なり 国府尼御前御書 こうあまごぜんごしょ [佐渡給仕御書] さどきゅうじごしょ (1325頁) 建治元年6月 (1275年) 通解(意訳) 日蓮を恋しく思われるならば、常に朝に出る太陽、夕べに出る月を拝されるがよい。何時であっても、日月に影を浮かべる身なのである 英語で御書 Gosho in English If you find that you miss me, always look at the sun that rises [in the morning] and the moon that rises in the evening. Whatever the time, I will be reflected in the sun and the moon. " Letter to the Lay Nun of Kō " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 596 in July, 1275. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 日蓮 こいしく・をはしせば 常 に 出ずる 日 ゆうべ に・いづる 月 を をがませ 給え、 いつとなく 日月 に かげ を うかぶる 身 なり NICHIREN KOISHIKU・OWASHISEBA TSUNE NI IZURU HI YŪBE NI・IZURU TSUKI WO OGAMASE TAMAE, ITSUTONAKU NICHIGATSU NI KAGE WO UKABURU MI NARI 国府 尼 御前 御書 KŌ AMA GOZEN GOSHO [佐渡 給仕 御書] SADO KYŪJI GOSHO 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings