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法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず - Carry through with your faith in the Lotus Sutra. You cannot strike fire from flint if you stop halfway.

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本文 貴辺 又 日蓮にしたがひて 法華経の行者として 諸人にかたり給ふ 是れ 豈 流通にあらずや、 法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば 火をえず、 強盛の大信力をいだして 法華宗の四条金吾・四条金吾と 鎌倉中の上下万人 乃至 日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ きへん また にちれん に したがいて ほけきょう の ぎょうじゃ として しょにん に かたりたもう これ あに るつう に あらずや、 ほけきょう の しんじん を・とおしたまえ・ひ を きる に・やすみぬれば ひ を えず、 ごうじょう の だいしんりき を いだして ほっけしゅう の しじょうきんご・しじょうきんご と かまくらじゅう の じょうげばんにん ないし にほんごく の いっさいしゅじょう の くち に うたわれたまえ 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ [煩悩即菩提御書] ぼんのうそくぼだいごしょ (1117~1118頁) 文永9年5月 (1272年)  通解(意訳) あなた(四条金吾)もまた、日蓮に従って、法華経の行者として信心の素晴らしさを様々な人に語られている。これこそまさに広宣流布ではないか。 法華経の信心を貫き通しなさい。火を起こすのに、その作業を途中で休んでしまえば火は得られない。強盛な信心を取り出して、法華宗(日蓮仏教)の四条金吾・四条金吾と、鎌倉中の上下万人、そして日本国の全ての人々が口にするようになっていきなさい。 英語で御書 Gosho in English Following me, you, as a votary of the Lotus Sutra, have told others of this Law. What else could this be but the transmission of the Law? Carry through with your faith in the Lotus Sutra. You cannot strike fire from flint if you stop halfway. Bring forth the great power of faith, and be spoken of by all the people of Kamakur

法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり - No treasure tower exists other than the figures of the men and women who embrace the Lotus Sutra

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本文 末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、 若し然れば 貴賤上下をえらばず 南無妙法蓮華経と・となうるものは 我が身 宝塔にして 我が身 又 多宝如来なり、 妙法蓮華経より外に 宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり 宝塔 又 南無妙法蓮華経なり まっぽう に いって ほけきょう を たもつ なんにょ の・すがた より ほか には ほうとう なき なり、 もし しかれば きせん じょうげ を えらばず なんみょうほうれんげきょう と・となうる もの は わが み ほうとう に して わが み また たほうにょらい なり、 みょうほうれんげきょう より ほか に ほうとう なき なり、ほけきょう の だいもく・ほうとう なり ほうとう また なんみょうほうれんげきょうなり 阿仏房御書 あぶつぼうごしょ [宝塔御書] ほうとうごしょ (1304頁) 文永9年3月(1272年) (建治2年(1279年)説有り) 通解(意訳) 末法に入って、法華経(御本尊)を持つ男女の姿より他には宝塔はない。 もしそうであれば、身分の貴さやいやしさ、立場の上と下といった差別なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人自身がそのまま宝塔であり、またその身が多宝如来(仏)なのである。 妙法蓮華経以外に宝塔はない。法華経の題目は南無妙法蓮華経が宝塔である。宝塔はまた南無妙法蓮華経なのである。  英語で御書 Gosho in English In the Latter Day of the Law, no treasure tower exists other than the figures of the men and women who embrace the Lotus Sutra. It follows, therefore, that whether eminent or humble, high or low, those who chant Nam-myoho-renge-kyo are themselves the treasure tower, and, likewise, are themselves the Thus Come One Many Treasures. No treasure tower exist

ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候 - Have profound faith. A coward cannot have any of his prayers answered.

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本文 なにの兵法よりも 法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、 兵法 剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候 なに の へいほう より も ほけきょう の へいほう を もちい たもう べし、「しょよ おんてき・かいしつ さいめつ」の きんげん むなし かる べからず、 へいほう けんぎょう の だいじ も この みょうほう より いでたり,ふかく しんじん を とり たまえ、あえて おくびょう にて は かなう べからず そうろう 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ [法華経兵法事] ほけきょうへいほうじ [剣形書]  けんぎょうしょ (1193頁)  弘安2年10月  (1279年)  通解(意訳) どのような策や方法よりも、信心によって智慧を引き出す「法華経の兵法」を用いていきなさい。 法華経を信受している者の成仏を妨げようとする、あらゆる魔の働きは、すべて信心の功徳で滅ぼすことができるのである(諸余怨敵・皆悉摧滅 しょ よ おん てき ・かい しつ さい めつ)。 教主釈尊の御金言が決して空しいはずがない。信心によって乗り越えられない苦難はないのである。 すべての世法も技術も、「心こそ大切なれ」という妙法の思想から生まれ出たものである。 いかなる逆境にあっても、題目を唱えて智慧を頂き、その智慧と御本尊の妙法の力を信じ抜いて、努力を惜しまず、前進する勇気をもって行動していきなさい。 信心も行動も、臆病であっては何事も成就することはできないのである。 英語で御書 Gosho in English Employ the strategy of the Lotus Sutra before any other. “All others who bear you enmity or malice will likewise be wiped out.” These golden words will never prove false.  The heart of strategy and swordsmanship derives from the Mystic Law. Have profound faith. A cowa

法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし - Those who now believe in the Lotus Sutra will gather fortune from ten thousand miles away.

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本文 法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし ほけきょう を しんずる ひと は・さいわい を ばんり の そと より あつむ べし 十字御書 むしもちごしょ (1492頁) 弘安4年1月 (1281年) 通解(意訳) 法華経を信じている人は、幸運を遠く離れた場所からでも集めることができるのである。 英語で御書 Gosho in English Those who now believe in the Lotus Sutra will gather fortune from ten thousand miles away. " New Year’s Gosho "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1137 in January, 1281. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし HOKEKYO WO SHINZURU HITO WA・SAIWAI WO BANRI NO SOTO YORI ATSUMU BESHI 十字御書 MUSHIMOCHI GOSHO 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

迷う時は衆生と名け 悟る時をば仏と名けたり - When deluded, one is called an ordinary being, but when enlightened, one is called a Buddha.

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本文 衆生の心けがるれば 土もけがれ 心清ければ 土も清しとて 浄土と云ひ穢土と云うも 土に二の隔なし 只 我等が心の善悪によると見えたり、 衆生と云うも仏と云うも 亦 此くの如し 迷う時は衆生と名け 悟る時をば仏と名けたり しゅじょう の こころ けがるれば つち も けがれ こころ きよければ つち も きよし とて じょうど と いい えど と いう も つち に ふたつ の へだたり なし ただ われら が こころ の ぜんあく に よる と みえたり、 しゅじょう と いうも ほとけ と いうも また かく の ごとし まよう とき は しゅじょう と なづけ さとる とき をば ほとけ と なづけたり 一生成仏抄 いっしょうじょうぶつしょう (384頁) 建長7年 (1255年) 通解(意訳) 「衆生の心がけがれるなら、その住む国土もけがれ、衆生の心が清ければ、土も清い」と説かれるように、浄土といっても穢土(えど、けがれた土地)といっても、国土が二つに分かれているのではない。ただ、我らの心の善悪によって、浄土とも穢土ともなるのである。 衆生というのも仏というのもまた同じ事である。人生に迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけたのである。 英語で御書 Gosho in English If the minds of living beings are impure, their land is also impure, but if their minds are pure, so is their land. There are not two lands, pure or impure in themselves. The difference lies solely in the good or evil of our minds. It is the same with a Buddha and an ordinary being. When deluded, one is called an ordinary being, but when enlightened, one is called a Buddha. " On Attaining Buddhahood in This Lifeti

よからんは不思議わるからんは一定とをもへ - Be prepared for the worst, and not to expect good times, but take the bad times for granted.

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本文 ただ一えん(円)に おもい切れ・よからんは不思議 わるからんは 一定と をもへ ひだるし と をもわば餓鬼道を をしへよ、さむし と いわば 八かん地獄を をしへよ、 をそろしし と・いわば たか に あへる きじ ねこ に あえる ねずみを 他人と をもう事なかれ ただ いちえん に おもいきれ・よからん は ふしぎ わるからん は いちじょう と おもえ ひだるし と おもわば がきどう を おしえよ、さむし と いわば はっかん じごく を おしえよ、 おそろしし と・いわば たか に あえる きじ ねこ に あえる ねずみ を たにん と おもう こと なかれ 聖人御難事 しょうにんごなんじ (1190~1191頁) 弘安2年10月 (1279年) 通解(意訳) (迫害を受けている熱原地方の農民門下達に対しての指導) ただ一途に、信心を貫き通すのだと決意しなさい。 善い結果になる方が不思議であり、悪い結果になる方が当然と考え、しっかりと用心しなさい。 妙法(不思議な法)で大悪も大善へと変革できるのだから、信じ切って悠々と題目を唱え、信行学を実践し、実証を示していきなさい。 空腹だと思うようであれば、餓鬼道の苦しみを教えよ(=学びなさい)。寒いと言うのであれば、八寒地獄の苦しみをを教えよ。 恐ろしいと言うのであれば、鷹に遭った雉(きじ)、猫に遭った鼠(ねずみ)を他人事と思わず、自分の事のように考えなさい。  英語で御書 Gosho in English Tell them to be prepared for the worst, and not to expect good times, but take the bad times for granted. If they complain of hunger, tell them about the sufferings of the world of hungry spirits. If they grumble that they are cold, tell them of the eight cold hells. If they say they are frightened, explain to them that a pheasant si

「能説此経・能持此経の人・則如来の使なり」 - One who “can preach this sutra” or who “can uphold this sutra” is “the envoy of the Thus Come One.”

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本文 経に云く「能説此経・能持此経の人・則如来の使なり」 八巻・一巻・一品・一偈の人 乃至 題目を唱うる人・如来の使なり、 始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり きょう に いわく「のうせつ のうきょう・のうじ のうきょう の ひと・すなわち にょらい の つかい なり」 はっかん・いっかん・いっぽん・いちげ の ひと ないし だいもく を となうる ひと・にょらい の つかい なり、 し ちゅう じゅう すてず して だいなん を・とおす ひと・にょらい の つかい なり 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ [源遠長流御書] ごんおんちょうりゅうごしょ (1181~1182頁) 弘安元年9月 (1278年) 通解(意訳) 法華経法師品第十に「能く此の経を説き、能く此の経を受持する人は仏の使いである」と説かれている。 法華経の全八巻、一巻、一品、一偈でも読み上げる人(現代での勤行)から、南無妙法蓮華経の題目を唱え、法華経を受持している人は如来の使いである。 さらに信心を始めた時、それからの人生の途中、そして臨終の最期まで、生涯、妙法を捨てずに、どのような大難を受けても信心を貫き通す人は如来の使いである。 英語で御書 Gosho in English The sutra states that one who “can preach this sutra” or who “can uphold this sutra” is “the envoy of the Thus Come One.” In other words, one who embraces the eight volumes, or a single volume, chapter, or verse, of the Lotus Sutra, or who chants the daimoku, is the Thus Come One’s emissary. Also, one who perseveres through great persecutions and embraces the sutra from beginning to end is the Thus Come One’s emissary. " The F

我が一念を指して 妙法蓮華経と名くるぞと 深く信心を発すべきなり - You must summon up deep faith that Myoho-renge-kyo is your life itself.

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本文 妙法と唱へ 蓮華と読まん時は 我が一念を指して 妙法蓮華経と名くるぞと 深く信心を発すべきなり みょうほうを となえ れんげと よまん ときは わが いちねんを さして みょうほうれんげきょうと なづくるぞと ふかく しんじんを ほっすべきなり 一生成仏抄 いっしょうじょうぶつしょう (383頁) 建長7年 (1255年) 通解(意訳) 妙法と唱え、蓮華と読誦する時は、自分自身の一念の事を指して、妙法蓮華経と名づけるのである、と深く信心を発すべきである。 英語で御書 Gosho in English When you chant myōhō and recite renge, you must summon up deep faith that Myoho-renge-kyo is your life itself. " On Attaining Buddhahood in This lifetime "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 3 in 1255. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 妙法と唱へ 蓮華と読まん時は 我が一念を指して 妙法蓮華経と名くるぞと 深く信心を発すべきなり MYOHO WO TONAE RENGE TO YOMAN TOKI WA WAGA ICHINEN WO SASHITE MYOHO-RENGE-KYO TO NAZUKURUZO TO FUKAKU SHINJIN WO HOS'SU BEKI NARI 一生成仏抄 IS'SHO JŌBUTSU SHŌ 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ - Never seek any other way to inherit the ultimate Law of life and death, and manifest it in your life.

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本文 相構え相構えて 強盛の大信力を致して 南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、 生死一大事の血脈 此れより外に 全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、 信心の血脈なくんば 法華経を持つとも無益なり あい かまえ あい かまえて ごうじょう の だいしんりき を いたして なんみょうほうれんげきょう・りんじゅうしょうねん と きねん し たまえ、 しょうじいちだいじ の けつみゃく これ より ほか に まったく もとむる こと なかれ、ぼんのう そく ぼだい・しょうじ そく ねはん とは これ なり、 しんじん の けつみゃく なくんば ほけきょう を たもつ とも むやく なり 生死一大事血脈抄 しょうじいちだいじけつみゃくしょう (1337頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) よくよく心して強盛の大信力を起こして、今死んでも悔いはないという覚悟(臨終正念)で、南無妙法蓮華経と祈念しなさい。 生死一大事の血脈をこれよりほかに決して求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とはこのことである。信心の血脈がなければ、法華経を持っても無益である 「師弟不二」の闘争に「信心の血脈」 私は、この絶対勝利の信心を戸田先生から教わりました。戸田先生は、牧口先生から教わりました。牧口先生は、御本尊から、大聖人から、教わりました。ここに創価の師弟の血脈があります。 - 池田大作 英語で御書 Gosho in English Be resolved to summon forth the great power of faith, and chant Nam-myoho-renge-kyo with the prayer that your faith will be steadfast and correct at the moment of death. Never seek any other way to inherit the ultimate Law of life and death, and manifest it in your life. Only then will you realize that earthly desires are enlightenment, and that

過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか - It must be ties of karma from the distant past that have destined you to become my disciple at a time like this.

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本文 過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、 「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ かこの しゅくえん おい きたって こんど にちれんが でしと なり たもうか・しゃか たほうこそ ごぞんじ そうらめ、 「ざい ざい しょ ぶつ ど じょう よ し ぐ しょう」よも そらごと そうらわじ 生死一大事血脈抄 しょうじいちだいじけつみゃくしょう (1338頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 過去世からの宿縁に導かれて、今世に日蓮と同じ日本の国土に共に生まれ、日蓮の弟子となられたのであろうか。釈迦仏・多宝如来こそご存知のことであろう。 法華経化城喩品第7に、「あらゆる場所の、あらゆる諸仏の国土に、常に師と同じ時・同じ場所に生まれる」(在在諸仏土常与師倶生、ざい ざい しょ ぶつ ど じょう よ し ぐ しょう)と書かれていることが、まさか嘘であるはずがない。 生死を貫く師弟の絆 「あなた(初代会長・牧口常三郎先生)の慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました。  そのおかげで、『在在諸仏土・常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を身でもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができました。 なんたるしあわせでございましょうか」 -戸田城聖 「この一言に私は感動した。 それと同じ心で私もまた戸田先生にお仕えしようと決めた。 師に捧げた、わが人生に一つの後悔もない」 -池田大作 英語で御書 Gosho in English It must be ties of karma from the distant past that have destined you to become my disciple at a time like this. Shakyamuni and Many Treasures certainly realized this truth. The sutra’s statement, “Those persons who had heard the Law dwelled here and there in various Buddha lands, constantly reborn in co

自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり - This Nam-myoho-renge-kyo encompasses both practice for oneself and the teaching of others.

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本文 末法に入て 今日蓮が唱る所の題目は 前代に異り 自行化他に亘りて 南無妙法蓮華経なり まっぽう に いって いま にちれん が となうる ところ の だいもく は ぜんだい に ことなり じぎょうけた に わたりて なんみょうほうれんげきょう なり 三大秘法禀承事 さんだいひほうぼんじょうのこと [三大秘法抄] さんだいひほうしょう (1022頁) 弘安4年4月 (1281年) 通解(意訳) 末法に入って、今日蓮が唱えている題目というのは、釈尊が法華経を顕してから、末法時代に入る前(正法、像法時代)に、悟りの境地を開いた一部の人だけが唱えることができた題目とは異なり、自分だけでなく他人にも勧める、「自行化他(自分も行い他人も教化する)」にわたって唱える南無妙法蓮華経なのである。 英語で御書 Gosho in English Now, however, we have entered the Latter Day of the Law, and the daimoku that I, Nichiren, chant is different from that of earlier ages. This Nam-myoho-renge-kyo encompasses both practice for oneself and the teaching of others.  " On the receiving of the Three Great Secret Laws "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.Vol.2, p. 986 in April, 1281. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  " -different from that of earlier ages." Only the person who could achieve Buddhahood could chant daimoku after Buddha publicizes a Lotus Sutra, the for

魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば 悦ぶ事に候 - It is the way of the devil to delight in obstructing good and in causing the production of evil.

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本文 法華経の行者をば 第六天の魔王の必ず障うべきにて候、十境の中の魔境 此れなり 魔の習いは 善を障えて悪を造らしむるをば 悦ぶ事に候、強いて悪を造らざる者をば 力 及ばずして 善を造らしむ 又 二乗の行をなす物をば・あながちに怨をなして善をすすむるなり、 又 菩薩の行をなす物をば 遮つて 二乗の行をすすむ 是 後に 純円の行を一向になす者をば 兼別等に堕すなり ほけきょうの ぎょうじゃをば だいろくてんの まおう かならず ささう べきにて そうろう、 じっきょうの なかの まきょう これなり まの ならいは ぜんを ささえて あくを つくらしむるをば よろこぶことに そうろう、しいて あくをつくらざる ものをば ちから およばずして ぜんを つくらしむ また にじょうの ぎょうを なすものをば・あながちに あだを なして ぜんを すすむるなり、また ぼさつの ぎょうを なすものをば さえぎって にじょうの ぎょうをすすむ この のちに じゅんえんの ぎょうを いっこうに なすものをば けんべつとうに おとすなり 常忍抄 じょうにんしょう [稟権出界抄] ほんごんしゅっかいしょう (981頁) 建治3年10月 (1277年) 通解(意訳) 法華経の行者のことを、第六天の魔王が必ず妨げるのである。 天台大師が顕した「摩訶止観」にある、魔事境がこれにあたり、仏道修行の障げとなる種々の現象が起こるのである。 魔の習癖は、善い行い(善行)をしようとする者を妨げて、悪事をさせるのを悦ぶことにある。どうしても悪事を行わない者には、力が及ばずに善行をさせるが、天界・人界の六道(十界のうち、地獄界・餓鬼界・修羅界・人界・天界)に留まった善行をさせ、仏法と縁させないよう邪魔するのである。 また、法華経以外の小乗仏教(自分だけの悟りを得ようとする、声聞・縁覚界の仏教)の修行をする者には、ひたすら恨んで、仏法にまで及ばない天界・人界の善行をさせ、大乗仏教(他人にも悟りを得させようとする、菩薩界の仏道修行)をする者には、それを邪魔して、より劣った二乗仏教の修行をすすめる。 そして最後に、一切衆生に皆等しく仏性があると説いている、真の仏法である法華経を、説法通りに修行をする者には、法華経に別の教えや我見の解釈を加えたり、法華経の解釈を誤ったりした大謗法

道理証文よりも現証にはすぎず - even more valuable than reason and documentary proof is the proof of actual fact.

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本文 日蓮 仏法をこころみるに 道理と証文とには すぎず、 又 道理 証文よりも現証にはすぎず にちれん ぶっぽう を こころみる に どうり と しょうもん と には すぎず、 また どうり しょうもん よりも げんしょう には すぎず 三三蔵祈雨事 さんさんぞうきうのこと (1468頁) 建治元年6月 (1275年) 通解(意訳) 日蓮が様々な宗教の優劣・正邪を判断する際、その宗教の教義や主張に、道徳や人道といった道理にかなっており、普遍妥当性(ふへん だとうせい、条件や時間などにとらわれず、どのような場合にも常に当てはまる性質)があるかを問う「理証」と、 記録または文書などの証拠があり、どの経典や文献を根本としているかを問う「文証」で判断をする以上の方法はない。 さらに、その宗教の正しさが、現実社会や実生活で証明されて、現実を変える力を持っているかを問う「現証」に勝るものない。 英語で御書 Gosho in English In judging the relative merit of Buddhist doctrines, I, Nichiren, believe that the best standards are those of reason and documentary proof. And even more valuable than reason and documentary proof is the proof of actual fact. " Three Tripitaka Masters Pray for Rain " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 598  in June, 1275. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  When Nichiren Buddhism judges the superiority or evilness of various religions, the doctrines and insistences of the religions c

法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる - Those who believe in the Lotus Sutra are as if in winter, but winter always turns to spring

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本文 法華経を信ずる人は冬のごとし 冬は必ず春となる、 いまだ昔より きかず・みず 冬の秋と かへれる事を、いまだきかず 法華経を信ずる人の凡夫となる事を、 経文には「若有聞法者無一不成仏」と とかれて候 ほけきょう を しんずる ひと は ふゆ の ごとし ふゆ は かならず はる と なる、 いまだ むかし より きかず・みず ふゆ の あき と かえれる ことを、いまだ きかず ほけきょう を しんずる ひと の ぼんぷ と なる ことを、 きょうもん には「にゃく う もん ぽう しゃ む いち ふ じょう ぶつ」と とかれて そうろう 妙一尼御前御消息 みょういちあまごぜんごへんじ [冬必為春事] ふゆはかならずはるとなるのこと (1253頁) 建治元年5月 (1275年) 通解(意訳) 法華経を信ずる人は、極寒の冬の辛い時期を耐える人のようなものである。 しかし、辛い冬も永遠に続くことはなく、信心根本に耐え貫いていけば、必ず春のような幸福が訪れるのである。 未だかつて、冬が春とならずに秋に戻ったということは、聞いたことも見たこともない。同じように、いまだかつて法華経を信ずる人が、仏に成らず凡夫のままである、ということも聞いたことがない。 経文には「もしこの法を聞くことがあれば、一人として成仏しない人はいない」と説かれている。   英語で御書 Gosho in English Those who believe in the Lotus Sutra are as if in winter, but winter always turns to spring. Never, from ancient times on, has anyone heard or seen of winter turning back to autumn. Nor have we ever heard of a believer in the Lotus Sutra who turned into an ordinary person. The sutra reads, “If there are those who hear the Law, then not a one will fail to attain Buddhahood.

深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし - Arouse deep faith, and diligently polish your mirror day and night.

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本文 衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し 迷う時は衆生と名付け悟る時をば仏と名けたり、 譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、 只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり 是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、 深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし 何様にしてか磨くべき 只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是を磨くとは云うなり しゅじょうと いうも ほとけと いうも また かくの ごとし まよう ときは しゅじょうと なづけ さとる ときをば ほとけと なづけたり、 たとえば あんきょうも みがき ぬれば たまと みゆるが ごとし、 ただいまも いっしんむみょうの めいしんは みがかざる かがみなり これを みがかば かならず ほっしょうしんにょの みょうきょうと なるべし、 ふかく しんじんを おこして にちやちょうぼに また おこたらず みがくべし いかようにしてか みがくべき ただ なんみょうほうれんげきょうと となえたてまつるを これを みがくとは いうなり 一生成仏抄 いっしょうじょうぶつしょう (384頁) 建長7年 (1255年) 通解(意訳) 衆生といっても仏といっても、また同様に2つの隔てがあるわけではない。迷う時は衆生と名付け、悟った時には仏と名付けるのである。 たとえば、曇っている鏡であっても、磨けば玉のように見えるようなものである。 一念無明の迷信とは、今の悩みや苦しみ等によって迷っている心の状態であり、まだ磨いていない鏡のようなものである。この鏡を磨けば、必ず仏性という本来生命に備わっている仏の生命(法性真如:仏界)を開き、明るく輝く鏡となるのである。 深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、また怠らずに磨いていきなさい。 では、どのように磨けばよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これを(生命という鏡を)磨くというのである。 英語で御書 Gosho in English It is the same with a Buddha and an ordinary being. When deluded, one is called an ordinary being, but when enlightened, one is called a Buddha. This is similar to

大地の底にかくしをきたる真の弟子あり - The Buddha declared: My true disciples I have kept hidden in the depths of the earth

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本文 我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり・此れにゆづるべしとて、 上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、 あなかしこ・あなかしこ・我が滅度の後・正法一千年・像法一千年に弘通すべからず、 われ ごひゃく じんてんこう より だいち の そこ に かくし おきたる しん の でし あり・これ に ゆずる べし とて、 じょうぎょうぼさつ ら を ゆしゅつぼん に めし ださせ たまいて、ほけきょう の ほんもん の かんじん たる みょうほうれんげきょう の ごじ を ゆずらせ たまいて、 あなかしこ・あなかしこ・わが めつど の のち・しょうほう いっせんねん・ぞうほう いっせんねん に ぐつう す べからず、 末法の始に謗法の法師一閻浮提に充満して諸天いかりをなし彗星は一天にわたらせ大地は大波のごとくをどらむ、 大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、 一閻浮提の人人・各各・甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、 諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、 まっぽう の はじめ に ほうぼう の ほうし いち えんぶだい に じゅうまん して しょてん いかり を なし すいせい は いってん に わたらせ だいち は おおなみ の ごとく おどらん、 だいかんばつ・たいか・たいすい・たいふう・だいえきびょう・だいききん・だいひょうらん とう の むりょうの だいさいなん ならび おこり、 いち えんぶだい の ひとびと・おのおの・かっちゅう を きて ゆみつえ を て に にぎらん とき、 しょぶつ・しょ ぼさつ・しょ だいぜんじん とう の おんちから の およばせ たまわざらん とき、 諸人皆死して無間地獄に堕ること雨のごとく・しげからん時・ 此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏・記しをかせ給いぬ しょにん みな し して むげんじごく に おちる こと あめ の ごとく・しげ からん とき・ この ご じ の だい まんだら を み に たい し こころ に ぞん ぜば しょおう は くに を たすけ ばんにん は なん を のがれん、ないし ご

此の経を持つ人人は他人なれども同じ霊山へまいりあわせ給うなり - Persons who uphold this sutra, though they may be strangers to one another, will meet on Eagle Peak.

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本文 此の経を持つ人人は 他人なれども同じ霊山へ まいりあわせ給うなり、 いかにいはんや故聖霊も殿も同じく法華経を信じさせ給へば・同じところに生れさせ給うべし この きょう を たもつ ひとびと は たにん なれども おなじ りょうぜん へ まいり あわせ たもう なり、 いか に いわんや こ しょうりょう も との も おなじく ほけきょう を しんじさせ たまえば・おなじ ところ に うまれ させ たもうべし 上野殿御返事 うえのどのごへんじ [土餅供養御書] つちもちくようごしょ (1508~1509頁) 文永11年11月 (1274年) 通解(意訳) この経を受持する人々は、他人であっても同じ霊山へ参ってまた会うことができるのである。ましてや、故聖霊(南条時光の父・故南条兵衛七郎)も、殿(時光)も同じく法華経を信仰されているのだから、必ず同じ所にお生まれになるであろう。 英語で御書 Gosho in English Persons who uphold this sutra, though they may be strangers to one another, will meet on Eagle Peak. And how much more certain is it that you and your late father, because you both have faith in the Lotus Sutra, will be reborn there together! " On the Offering of a Mud Pie "  "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.2, p. 500 in November, 1274. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  You: Tokimitsu Nanjō who Famous youth leaders. Gosho in Japanese 此の 経 を 持つ 人人 は 他人 なれども 同じ 霊山 へ まいり あわせ 給う なり、 いか

南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり - Nam-myoho-renge-kyo is the greatest of all joys.

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本文 始めて我 心 本来の仏なりと知るを 即ち 大歓喜 と 名く 所謂 南無妙法蓮華経 は 歓喜の中の大歓喜なり はじめて わが こころ ほんらい の ほとけ なり と しる を すなわち だいかんき と なづく いわゆる なんみょうほうれんげきょう は かんき の なか の だいかんき なり 御義口伝 おんぎくでん 廿八品に一文充の大事 にじゅうはっぽんにいちもんずつのだいじ  五百品 ごひゃっぽん (788頁) 通解(意訳) 信心に懸命に励んでいき、我が生命に大きな歓喜が沸き起こった時、初めて自分自身が本来の仏なのだと知ることを、すなわち大歓喜というのである。いわゆる南無妙法蓮華経と唱えていくことは、自分自身の仏の境涯を開いていける、歓喜の中の大歓喜なのである。 英語で御書 Gosho in English Summary: This passage refers to the great joy that one experiences when one understands for the first time that one’s mind from the very beginning has been a Buddha. Nam-myoho-renge-kyo is the greatest of all joys. ==================================== The Essential Passage in Each of the Twenty-eight Chapters of the Lotus Sutra - 8. Prophecy of Enlightenment for Five Hundred Disciples "The Record of The Orally Transmitted Teachings" Part 2, p. 211 to 212 ==================================== [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 始めて 我 心 本来 の 仏 なりと 知る を 即ち 大歓喜 と 名く 所謂 南無妙法蓮華経 は 歓喜 の中 の 大歓