法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即ち仏なり - With regard to the Lotus Sutra, when one’s hand takes it up, that hand immediately attains Buddhahood, and when one’s mouth chants it, that mouth is itself a Buddha.
本文 法華経と申すは 手に取れば其の手 やがて仏に成り・口に唱ふれば 其の口 即ち 仏なり、譬えば天月の東の山の端に出ずれば 其の時 即 水に影の浮かぶが如く・音と ひびき との同時なるが如し、故に 経に云く「若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無し」云云、文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら・千人は千人ながら・一人もかけず仏に成ると申す文なり 上野尼御前御返事[鳥竜遺竜事] (1580頁) 弘安4年(1281年)11月 通解(意訳) 日蓮仏法というものは、手に取って行ずれば、その行いがそのまま仏の手となり、口に題目を唱え、信心の体験を語れば、その口がそのまま仏の口になって、自身がありのままの姿で、即座に仏の境涯を開くことができるのである。 例えば、月が東の山に出れば、それと同時に水面に月が映るように、また大きな音が鳴ると、周囲に音が響くのが同時であるようなものである。 ゆえに、法華経には「もし法華経を聞く事が有る者は、一人として成仏しないことはない」(若有聞法者無一不成仏・にゃく.う. もんぽうしゃ.むいち.ふ.じょうぶつ)と書かれている。この文章の意味は、法華経を受持する人は、誰もが自身の無限の可能性を開き、幸福な境涯をつかむことができるという文なのである。 English Gosho With regard to the Lotus Sutra, when one’s hand takes it up, that hand immediately attains Buddhahood, and when one’s mouth chants it, that mouth is itself a Buddha, as, for example, the moon is reflected in the water the moment it appears from behind the eastern mountains, or as a sound and its echo arise simultaneously. It is for this reason that the sutra states, “If there are tho...