今度・強盛の菩提心を・をこして 退転せじと願しぬ - Nevertheless, I vowed to summon up a powerful and unconquerable desire for the salvation of all beings and never to falter in my efforts.
本文
法華経・涅槃経等に 此の二辺を合せ見るに・
いはずば 今生は事なくとも 後生は必ず無間地獄に堕べし、
いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、
二辺の中には・いうべし、
王難等・出来の時は 退転すべくは 一度に思ひ止るべしと 且くやすらいし程に
宝塔品の六難九易これなり、
我等程の小力の者・須弥山はなぐとも
我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも
我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも
法華経は 一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、
今度・強盛の菩提心を・をこして 退転せじと願しぬ。
ほけきょう ねはんぎょう に この にへん を あわせみる に
いわずば こんじょう は こと なくとも ごしょう は かならず むけんじごく に おつ べし
いう ならば さんしょうしま かならず きそい おこる べし と しりぬ
にへん の うち には いう べし
おうなん とう しゅったい の とき は たいてん すべく は いちど に おもい とどまるべし と しばらく やすらいし ほど に
ほうとうほん の ろくなんくい これ なり
われら ほど の しょうりき の もの しゅみせん は なぐ とも
われら ほど の むつう の もの かれくさ を おうて ごうか には やけず とも
われら ほど の むち の もの ごうしゃ の きょうぎょう をば よみ おぼう とも
ほけきょう は いっく いちげ も まつだい に たもち がたし と とかるる は これ なる べし、
こんど・ごうじょう の ぼだいしん を・おこして たいてん せじ と がんしぬ。
法華経・涅槃経等の文に、法華経を説くと様々な困難が競い起こる事について、言うか言わないのかの二辺を合わせ見るに、
言わないならば、今生には事がないけれども後生は必ず無間地獄に堕ちるであろう。
言うならば、三障四魔が競い起こってこれを妨げるのであるということがわかった。
この二辺の中には言うべきである。
しかし王難等の大迫害が起きたなら、一度に思いとどまるであろうと、しばらく考えつつある時に、思い当たったのが宝塔品の六難九易である。
われらほどの小力の者が、須弥山のごとき大山を投げるとも、
われらほどの神通のない者が、燃えやすい乾草を背負って劫火のなかをくぐり、しかも焼けないことがあろうとも、
われらほどの無智の者が、数え切れない多数の経々を読みおぼえることができるとしても、
法華経は一句一偈ですら、末法に持つことは困難であると説かれているのは、宝塔品にある六難九易の事なのである。
この事に気づいたので、今度こそ強盛の大菩提心を起こして、いかなる大難に遭っても、絶対に退転しないと誓願したのである。
法華経・涅槃経等に 此の二辺を合せ見るに・
いはずば 今生は事なくとも 後生は必ず無間地獄に堕べし、
いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、
二辺の中には・いうべし、
王難等・出来の時は 退転すべくは 一度に思ひ止るべしと 且くやすらいし程に
宝塔品の六難九易これなり、
我等程の小力の者・須弥山はなぐとも
我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも
我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも
法華経は 一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、
今度・強盛の菩提心を・をこして 退転せじと願しぬ。
ほけきょう ねはんぎょう に この にへん を あわせみる に
いわずば こんじょう は こと なくとも ごしょう は かならず むけんじごく に おつ べし
いう ならば さんしょうしま かならず きそい おこる べし と しりぬ
にへん の うち には いう べし
おうなん とう しゅったい の とき は たいてん すべく は いちど に おもい とどまるべし と しばらく やすらいし ほど に
ほうとうほん の ろくなんくい これ なり
われら ほど の しょうりき の もの しゅみせん は なぐ とも
われら ほど の むつう の もの かれくさ を おうて ごうか には やけず とも
われら ほど の むち の もの ごうしゃ の きょうぎょう をば よみ おぼう とも
ほけきょう は いっく いちげ も まつだい に たもち がたし と とかるる は これ なる べし、
こんど・ごうじょう の ぼだいしん を・おこして たいてん せじ と がんしぬ。
開目抄・上
かいもくしょう・じょう
[人本尊開顕の書]
にんほんぞんかいけんのしょ
(200頁)
文永9年2月
(1272年)
通解(意訳)法華経・涅槃経等の文に、法華経を説くと様々な困難が競い起こる事について、言うか言わないのかの二辺を合わせ見るに、
言わないならば、今生には事がないけれども後生は必ず無間地獄に堕ちるであろう。
言うならば、三障四魔が競い起こってこれを妨げるのであるということがわかった。
この二辺の中には言うべきである。
しかし王難等の大迫害が起きたなら、一度に思いとどまるであろうと、しばらく考えつつある時に、思い当たったのが宝塔品の六難九易である。
われらほどの小力の者が、須弥山のごとき大山を投げるとも、
われらほどの神通のない者が、燃えやすい乾草を背負って劫火のなかをくぐり、しかも焼けないことがあろうとも、
われらほどの無智の者が、数え切れない多数の経々を読みおぼえることができるとしても、
法華経は一句一偈ですら、末法に持つことは困難であると説かれているのは、宝塔品にある六難九易の事なのである。
この事に気づいたので、今度こそ強盛の大菩提心を起こして、いかなる大難に遭っても、絶対に退転しないと誓願したのである。
英語で御書
Gosho in English
I have considered which course to take in the light of the teachings of the Lotus and Nirvana sutras.
If I remain silent, I may escape persecutions in this lifetime, but in my next life I will most certainly fall into the hell of incessant suffering. If I speak out, I am fully aware that I will have to contend with the three obstacles and four devils. But of these two courses, surely the latter is the one to choose.
If I were to falter in my determination in the face of persecutions by the sovereign, however, it would be better not to speak out.
While thinking this over, I recalled the teachings of the “Treasure Tower” chapter on the six difficult and nine easy acts.
Persons like myself who are of paltry strength might still be able to lift Mount Sumeru and toss it about; persons like myself who are lacking in supernatural powers might still shoulder a load of dry grass and yet remain unburned in the fire at the end of the kalpa of decline; and persons like myself who are without wisdom might still read and memorize as many sutras as there are sands in the Ganges.
But such acts are not 0difficult, we are told, when compared to the difficulty of embracing even one phrase or verse of the Lotus Sutra in the Latter Day of the Law.
Nevertheless, I vowed to summon up a powerful and unconquerable desire for the salvation of all beings and never to falter in my efforts.
Gosho in English
I have considered which course to take in the light of the teachings of the Lotus and Nirvana sutras.
If I remain silent, I may escape persecutions in this lifetime, but in my next life I will most certainly fall into the hell of incessant suffering. If I speak out, I am fully aware that I will have to contend with the three obstacles and four devils. But of these two courses, surely the latter is the one to choose.
If I were to falter in my determination in the face of persecutions by the sovereign, however, it would be better not to speak out.
While thinking this over, I recalled the teachings of the “Treasure Tower” chapter on the six difficult and nine easy acts.
Persons like myself who are of paltry strength might still be able to lift Mount Sumeru and toss it about; persons like myself who are lacking in supernatural powers might still shoulder a load of dry grass and yet remain unburned in the fire at the end of the kalpa of decline; and persons like myself who are without wisdom might still read and memorize as many sutras as there are sands in the Ganges.
But such acts are not 0difficult, we are told, when compared to the difficulty of embracing even one phrase or verse of the Lotus Sutra in the Latter Day of the Law.
Nevertheless, I vowed to summon up a powerful and unconquerable desire for the salvation of all beings and never to falter in my efforts.
" The Opening of the Eyes " Part I
" The Writings of Nichiren Daishonin ",
Vol.1, p. 239 - P 240
in February, 1272.
[ --- ] is liberal translation.
Interpretation (liberal translation)" The Writings of Nichiren Daishonin ",
Vol.1, p. 239 - P 240
in February, 1272.
[ --- ] is liberal translation.
★Text★
参考文献:
「日蓮大聖人御書全集」
「御書をひもとく」
「英語で学ぶ御書」
第三文明社
Bibliography :
"The Writings of Nichiren Daishonin"
"The Record of The Orally Transmitted Teachings"
「日蓮大聖人御書全集」
「御書をひもとく」
「英語で学ぶ御書」
第三文明社
Bibliography :
"The Writings of Nichiren Daishonin"
"The Record of The Orally Transmitted Teachings"
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