水は一なれども果報に随つて別別なり - Though the water is the same, it appears differently according to one’s karmic reward from the past.
本文
此の経の文字は 皆悉く 生身妙覚の御仏なり 然れども 我等は肉眼なれば文字と見るなり、
例せば 餓鬼は恒河を火と見る 人は水と見る 天人は甘露と見る
水は一なれども 果報に随つて別別なり
この きょうの もじは みな ことごとく しょうじんみょうかくの みほとけ なり しかれども われらは にくがん なれば もじと みる なり、
れいせば がきは ごうかを ひ と みる ひとは みず と みる てんにん は かんろ と みる
みず は いち なれども かほうに したがって べつべつ なり
曾谷入道殿御返事
そやにゅうどうどのごへんじ
(1025頁)
文永12年3月
(1275)
通解(意訳)
この法華経の文字は、一字一字のすべてがことごとく、生身の釈迦仏と同じであり、そのまま自身の仏性と同じなのである。しかしながら、我等は凡夫の肉眼なので、ただの文字だと見るのである。
例えば、餓鬼界の境涯の者は恒河(ガンジス河)を火と見て恐れる。人界の境涯の者は水と見る。天界の境涯の者は甘露と見る。
水は同じひとつのものであるけれども、見る者の境涯の違いによって、見え方は別々なのである
英語で御書
Gosho in English
Gosho in English
The characters of this Sutra are all without exception living Buddhas of perfect enlightenment. But because we have the eyes of ordinary people, we see them as characters.
For instance, hungry spirits perceive the Ganges River as fire, human beings perceive it as water, and heavenly beings perceive it as amrita.
Though the water is the same, it appears differently according to one’s karmic reward from the past.
" Reply to the Lay Priest Soya "
"The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 486
in March, 1275.
[ --- ] is liberal translation.Gosho in Japanese
此の経の文字は 皆悉く 生身妙覚の御仏なり 然れども 我等は肉眼なれば文字と見るなり、
例せば 餓鬼は恒河を火と見る 人は水と見る 天人は甘露と見る
水は一なれども 果報に随つて別別なり
KONO KYO NO MOJI WA MINA KOTOGOTOKU SHŌJIN-MYŌKAKU NO MIHOTOKE NARI SHIKAREDOMO WARERA WA NIKUGAN NAREBA MOJI TO MIRU NARI,
REI-SEBA GAKI WA GŌKA WO HI TO MIRU HITO WA MIZU TO MIRU TEN-NIN WA KANRO TO MIRU MIZU WA ICHI NAREDOMO KAHŌ NI SHITAGAT'TE BETSU-BETSU NARI
曾谷入道殿御返事
SOYA NYŪDŌ DONO GOHENJI
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