親の子を すてざるが如く・子の母に はなれざるが如く - as parents refuse to abandon their children, or as a child refuses to leave its mother.
本文 信心と申すは 別には これなく候、妻の をとこを おしむが如く をとこの 妻に命を すつるが如く、親の子を すてざるが如く・子の母に はなれざるが如くに、 法華経 釈迦 多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へ たてまつるを 信心とは申し候なり しんじん と もうす は べつ には これ なく そうろう、つま の おとこ を おしむ が ごとく おとこ の つま に いのち を すつる が ごとく、おや の こ を すてざる が ごとく・こ の はは に はなれざる が ごとく に、 ほけきょう しゃか たほう・じっぽう の しょ ぶつ ぼさつ・しょてん ぜんじん とう に しん を いれ たてまつりて なんみょうほうれんげきょう と となへ たてまつる を しんじん とは もうし そうろう なり 妙一尼御前御返事 みょういちあまごぜんごへんじ [信心本義事] しんじんほんぎじ (1255頁) 弘安3年5月 (1280年) 通解(意訳) 信心というのは、特別にこれというものではない。 妻が夫を想い慕うように、また夫が妻の為なら命をすてるように、親が子を捨てないように、子供が母親から離れないように、信心というのは、本能的な慈愛の行動と同じ事なのである。 法華経・釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・諸天善神が住まわれている、あなたの身心に備わっている仏界を書き顕した御本尊を信じきって、自他共の幸福を願う慈愛の心で、南無妙法蓮華経の題目を唱え奉ることを、信心というのである。 御本尊に祈る行為、それ自体が尊い 「雑念がわいたってかまわない。人間だから当然でしょう。そのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばいいんです。・・・そういう雑念でさえも、題目によって、功徳に変わるのです。」 ‐池田大作 英語で御書 Gosho in English What is called faith is nothing unusual. Faith means putting one’s trust in the Lotus Sutra, Shakyamuni, Many Treasures, the Buddhas and bodhisattvas...