仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず -In all the 2,225 years since the passing of the Buddha, not a single person chanted it.
本文
一閻浮提に 人ごとに有智無智を きらはず 一同に他事をすてて 南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず 一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間 一人も唱えず 日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と 声も をしまず 唱うるなり
一閻浮提に 人ごとに有智無智を きらはず 一同に他事をすてて 南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず 一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間 一人も唱えず 日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と 声も をしまず 唱うるなり
いちえんぶだいにひとごとにうちむちをきらわずいちどうにたじをすててなんみょうほうれんげきょうととなうべし、
このこといまだ・ひろまらずいちえんぶだいのうちにぶつめつご・2225ねんがあいだひとりもとなえずにちれんひとり・なんみょうほうれんげきょう・なんみょうほうれんげきょうとこえをおしまずとなうるなり
報恩抄
ほうおんしょう
(328~329頁)
建治2年7月
(1276年)
通解(意訳)
全世界の人々が、仏法の知識のある者と、知恵のない者の区別なく、皆が一同に他の経を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えるべきである。この事は未だに弘まっておらず、全世界において、釈尊滅後2225年の間、一人として唱えなかった。日蓮が初めて、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と声を惜しまず唱えているのである。
全世界の人々が、仏法の知識のある者と、知恵のない者の区別なく、皆が一同に他の経を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えるべきである。この事は未だに弘まっておらず、全世界において、釈尊滅後2225年の間、一人として唱えなかった。日蓮が初めて、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と声を惜しまず唱えているのである。
英語で御書
Gosho in English
Gosho in English
Every person, regardless of whether wise or ignorant, will set aside other practices and join in the chanting of Nam-myoho-renge-kyo. This teaching has never been taught before.
Here in the entire land of Jambudvīpa, in all the 2,225 years since the passing of the Buddha, not a single person chanted it. Nichiren alone, without sparing his voice, now chants Nam-myoho-renge-kyo, Nam-myoho-renge-kyo.
" On Repaying Debts of Gratitude "
"The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 736
in July, 1276.
[ --- ] is liberal translation.
Gosho in Japanese
一閻浮提に 人ごとに有智無智を きらはず 一同に他事をすてて 南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず 一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間 一人も唱えず 日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と 声も をしまず 唱うるなり
ICHI-ENBUDAI NI HITO GOTO NI UCHI-MUCHI WO KIRAWAZU ICHIDŌ NI TAJI WO SUTETE NAM-MYOHO-RENGE-KYO TO TONAU-BESHI,
KONO KOTO IMADA・HIROMARAZU ICHI-ENBUDAI NO UCHI NI BUTSU-METSUGO・NI-SEN-NI-HYAKU-NIJU-GO NEN GA AIDA HITORI MO TONAEZU NICHIREN HITORI・NAM-MYOHO-RENGE-KYO・NAM-MYOHO-RENGE-KYO TO KOE MO OSHIMAZU TONAURU NARI
報恩抄
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