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異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり - This spiritual bond is the basis for the universal transmission of the ultimate Law of life and death.

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本文 総じて日蓮が弟子檀那・自他彼此の心なく 水魚の思を成して異体同心にして 南無妙法蓮華経と唱え奉る処を 生死一大事の血脈とは云うなり、 しかも今 日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か そうじて にちれん が でし だんな・じた ひし の こころ なく すいぎょ の おもい を なして いたいどうしん に して なんみょうほうれんげきょう と となえ たてまつる ところ を しょうじいちだいじ の けつみゃく とは いうなり、 しかも いま にちれん が ぐつう する ところ の いわゆる これ なり、もし しからば こうせんるふ の だいがん も かなうべき もの か 生死一大事血脈抄 しょうじいちだいじけつみゃくしょう (1337頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 総じて日蓮の弟子・壇家の者達が、自分と他人、あちらとこちら等と、別け隔てる心がなく、水と魚が切っても切れない関係のように、皆それぞれが「広宣流布のために」という想いを同じくして、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを、生死一大事の血脈というのである。 しかも今、日蓮が弘通する日蓮仏法の一番の肝要は、この事なのである。 もし、弟子達がこの通りに実践してしていけば、広宣流布の大願も叶うに違いない。 異体同心の団結が勝負を決する 「異体同心というのは、現代で言えば『組織』ということです。 『異体』というのは、ひとそれぞれ、姿も立場も、状況も使命も違う。しかし『心』は──信心は『同心』でいきなさいというのです。 『異体異心』では、バラバラです。『同体同心』というのは無理やり、形も姿も心まで統一しようというのです。ファシズムであり、自由はない。だれもついてこられず、格好だけ合わせている。結局、『同体異心』になってしまう」 ─池田大作 英語で御書 Gosho in English All disciples and lay supporters of Nichiren should chant Nam-myoho-renge-kyo with the spirit of many in body but one in mind, transcending all differences among themselv

一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり - I, Nichiren, am the first to embark on propagating, throughout Jambudvīpa

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本文 法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提に ひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、 わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし ほけきょう の かんじん・しょぶつ の がんもく たる みょうほうれんげきょう の ごじ・まっぽう の はじめ に いち えんぶだい に ひろまらせ たもう べき ずいそう に にちれん さきがけ したり、 わとうども にじん さんじん つづきて かしょう・あなん にも すぐれ てんだい・でんぎょう にも こえよかし 種種御振舞御書 しゅじゅおふるまいごしょ [佐渡抄] さどしょう (910~911頁)  建治2年3月 (1276年) 通解(意訳) 法華経の肝心であり・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に広まっていくきっかけとして、日蓮がその先駆を切った。わが門下一党の者も、二陣・三陣と日蓮に続いて正法を弘通して、法華経を伝えてきた先人達である、迦葉・阿難にも勝り、天台・伝教をも超えていきなさい。 英語で御書 Gosho in English Now, at the beginning of the Latter Day of the Law, I, Nichiren, am the first to embark on propagating, throughout Jambudvīpa, the five characters of Myoho-renge-kyo, which are the heart of the Lotus Sutra and the eye of all Buddhas. During the 2,220 or more years since the Buddha’s passing, not even  Mahākāshyapa, Ānanda, Ashvaghosha, Nāgārjuna, Nan-yüeh, T’ien-t’ai, Miao-lo, or Dengyō has propagated them. My disciples, form your ranks and follow me, and surpass even Mahākāshyapa or Ānanda

願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ - My wish is that my disciples will be cubs of the lion king, never to be laughed at by the pack of foxes.

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本文 願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、 過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ・師子は値いがたかるべし ねがわく は わが でしら は ししおう の こ と なりて ぐんこ に わらわるる こと なかれ、 かこ おんのんごう より この かた にちれん が ごとく しんみょう を すてて ごうてき の とが を あらわせ・しし は あいがたかる べし 閻浮提中御書 えんぶだいちゅうごしょ [師子王御書] ししおうごしょ (1589頁) 年月不明 (弘安元年説有り) 通解(意訳) 願わくは日蓮の弟子等は、師子王の子となって、群れた狐のような者たちに笑わるることがあってはならない。 過去遠遠劫より以来の日蓮のように、身命を捨てて強敵の悪(謗法)を暴き顕していきなさい。師子に値うことは難しいのである。 師子(獅子王)である日蓮大聖人の弟子であれば、弟子も師子の子となりなさい。 やがて師子となり、師弟共に師子王の心を持って、命を捨てる覚悟で邪悪と戦い、命を捨てる覚悟で民衆救済の広宣流布のために戦いなさい。 師匠は、愛する弟子を護る為ならば、あらゆる困難に立ち向かい、弟子は、師子王である師匠の心を我が心として、民衆の為に、師匠を護るために戦うのだ。 本物の獅子に遭うことが難しいように、本物の師匠と弟子とは出会い難いものなのである。 英語で御書 Gosho in English My wish is that my disciples will be cubs of the lion king, never to be laughed at by the pack of foxes. It is hard to encounter a master like Nichiren, who since distant kalpas in the past down to the present day has never begrudged his body or life in order to expose the faults of his powerful enemies! " In the Continent of Jambudvīpa " "The W

十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へ - and the Buddhas of the ten directions will all gather ​and take possession of your body to assist you

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本文 釈迦・多宝・十方の仏・来集して 我が身に入りかはり 我を助け給へと 観念せさせ給うべし しゃか・たほう・じっぽうのほとけ・らいしゅうして わがみにいりかわり われをたすけたまえと かんねんさせたもうべし 弥三郎殿御返事 やさぶろうどのごへんじ (1451頁) 建治3年8月 (1277年) 通解(意訳) 釈迦仏・多宝仏・十方の仏が集い来て我が身に入りかわり、我を助けたまえと、諸天善神や教主釈尊をも揺り動かすような題目を唱え、御祈念していきなさい。 英語で御書 Gosho in English You should pray intently that Shakyamuni, Many Treasures, and the Buddhas of the ten directions will all gather and take possession of your body to assist you. " Reply to Yasaburō " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 829 in August, 1277. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 釈迦・多宝・十方 の 仏・来集 して 我が 身 に 入りかはり 我 を 助け 給へ と 観念 せさせ 給う べし SHAKA・TAHŌ・JIPPŌ NO HOTOKE・RAISHŪ SHITE WAGA MI NI IRI-KAWARI WARE WO TASUKE TAMAE TO KAN-NEN SASE TAMOU BESHI 弥三郎 殿 御返事 YASABURŌ DONO GOHENJI 参考文献: 「日蓮大聖人御書全集」 「御書をひもとく」 「英語で学ぶ御書」 第三文明社 Bibliography : "The Writings of Nichiren Daishonin" "The Record of The Orally Transmitted Teachings"

日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし - If Nichiren's compassion is truly great and encompassing, Nam-myoho-renge-kyo will spread for ten thousand years and more, for all eternity

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本文 日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、 此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、 是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳 にちれん が じひ こうだい ならば なんみょうほうれんげきょう は まんねん の ほか・みらい までも ながるべし、 にほんこく の いっさいしゅじょう の もうもく を ひらける くどく あり、むげんじごく の みち を ふさぎぬ、 この くどく は でんきょう・てんだい にも こえ りゅうじゅ・かしょう にも すぐれたり ごくらく ひゃくねん の しゅぎょう は えど の いちにち の くどく に およばず、しょうぞう にせんねん は まっぽう の いちじ に おとるか、 これ ひとえ に にちれん が ち の かしこき には・あらず とき の しからしむる のみ 報恩抄 ほうおんしょう (329頁)  建治2年7月 (1276年) 通解(意訳) 「南無妙法蓮華経だけが、全世界のあらゆる人々を差別なく救い、自身の仏性に目覚め、自身の妙法の力で幸せをつかむことのできる、真実の法である。この妙法を一切衆生に弘めよう」 という、日蓮の慈悲の心が広大であるならば、南無妙法蓮華経は万年という時をも越えて、未来永遠に流布するに違いない。  日本のあらゆる民衆の、暗く落ち込んでいる盲目の生命を開く功徳がある。無間地獄の道をふさいで、あらゆる苦しみの根源を断ち切るのである。 この功徳は、過去に法華経の教えを説いた日本の伝教大師、中国の天台大師も超えて、さらにはインドの竜樹菩薩、釈迦の十大弟子の一人である、迦葉尊者よりも優れているのである。 極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばない。正像二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。 これはひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではない。弘めるべき時がきたのみである。 英語で御書 Gosho in English If Nichiren's compassion is truly great and encompassing, Nam-m

いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ - If I speak out, I am fully aware that I will have to contend with the three obstacles and four devils.

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本文 法華経・涅槃経等に 此の二辺を合せ見るに・ いはずば 今生は事なくとも 後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、 王難等・出来の時は 退転すべくは 一度に思ひ止るべしと 且くやすらいし程に 宝塔品の六難九易これなり ほけきょう ねはんぎょう に この にへん を あわせみる に いわずば こんじょう は こと なくとも ごしょう は かならず むけんじごく に おつ べし、いう ならば さんしょうしま かならず きそい おこる べし と・しりぬ、にへん の うち には・いう べし、 おうなん とう・しゅったい の とき は たいてん すべく は いちど に おもい とどまるべし と しばらく やすらいし ほど に ほうとうほん の ろくなんくい これ なり 開目抄・上 かいもくしょう・じょう [人本尊開顕書] [人本尊開顕の書] にんほんぞんかいけんのしょ (200頁) 文永9年2月 (1272年) 通解(意訳) 法華経・涅槃経等の文に、法華経を説くと様々な困難が競い起こる事について、言うか言わないのかの二辺を合わせ見るに、 言わないならば、今生には事がないけれども後生は必ず無間地獄に堕ちるであろう。 言うならば、三障四魔が競い起こってこれを妨げるのであるということがわかった。 この二辺の中には言うべきである。 しかし王難等の大迫害が起きたなら、一度に思いとどまるであろうと、しばらく考えつつある時に、思い当たったのが宝塔品の六難九易である。 英語で御書 Gosho in English I have considered which course to take in the light of the teachings of the Lotus and Nirvana sutras. If I remain silent, I may escape persecutions in this lifetime, but in my next life I will most certainly fall into the hell of incessant suffering. If I speak out, I am fully aware that I w

譬えば竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し - The situation is like the joints in a piece of bamboo: if one joint is ruptured, then all the joints will split.

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本文 今 法華経と申すは 一切衆生を仏になす 秘術まします御経なり、 所謂 地獄の一人・餓鬼の一人・乃至 九界の一人を 仏になせば 一切衆生・皆 仏になるべき ことはり顕る、 譬えば竹の節を一つ破ぬれば 余の節 亦 破るるが如し いま ほけきょう と もうす は いっさいしゅじょう を ほとけ に なす ひじゅつ まします おきょう なり、 いわゆる じごく の ひとり・がき の ひとり・ないし きゅうかい の ひとり を ほとけ に なせば いっさいしゅじょう・みな ほとけ に なる べき ことわり あらわる、 たとえば たけ の ふし を ひとつ やぶり ぬれば よ の ふし また やぶるる が ごとし 法蓮抄 ほうれんしょう [父子成仏抄] ふしじょうぶつしょう (1046頁) 建治元年4月 (1275年) 通解(意訳) 今、法華経というのは、一切衆生を仏にする秘術がある御経である。生命の状態をあらわした、いわゆる十界論の地獄界の一人・餓鬼界の一人・ないし九界の中の一人、この「一人の人」を仏にすることで、「全ての人々が皆、同じように仏になることができる」という道理が顕れるのである。 例えば、竹の節を縦に一つ割れば、他の節もそれにしたがって、一瞬で縦に割れるようなものである。 このように、どのような状況にあったとしても、南無妙法蓮華経と唱えた瞬間に、仏界・仏性という、自己の無限の力、可能性を涌現させることができるのである。 英語で御書 Gosho in English The Lotus Sutra offers a secret means for leading all living beings to Buddhahood. It leads one person in the realm of hell, one person in the realm of hungry spirits, and thus one person in each of the nine realms of existence to Buddhahood, and thereby the way is opened for all living beings to attain Buddhahood. The situation is l

謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ - Reverently make this teaching your own, and transmit it as an axiom of faith for future generations.

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本文 此の法門を申すには必ず魔出来すべし 魔競わずは正法と知るべからず、 第五の巻に云く「行解 既に勤めぬれば 三障四魔 紛然として競い起る 乃至 随う可らず 畏る可らず 之に随えば 将に人をして 悪道に向わしむ 之を畏れば 正法を修することを妨ぐ」 等云云、 此の釈は 日蓮が身に当るのみならず 門家の明鏡なり 謹んで習い伝えて 未来の資糧とせよ この ほうもんを もうす には かならず ま しゅったい すべし ま きそわずは しょうほうと しる べからず、 だいごの まきに いわく「ぎょうげ すでに つとめぬれば さんしょうしま ふんぜんとして きそいおこる ないし したがう べからず おそる べからず これに したがえば まさに ひとをして あくどうに むかわしむ これを おそれば しょうほうを しゅうすることを さまたぐ」とう うんぬん この しゃくは にちれんが みに あたる のみならず もんけの めいきょうなり つつしんで ならい つたえて みらいの しりょうとせよ 兄弟抄 きょうだいしょう KYŌDAI SHŌ (1087頁) 文永12年4月 (1275年) 通解(意訳) この法門を説けば、必ず魔が現れる。魔が競い起こらなければ、正法とは言えないのである。 天台大師の摩訶止観・第五巻には、「仏法の修行と理解が進んでくると、三障四魔が紛然として競い起こる。(乃至=中略の意味)しかし、決してしたがってはならない。おそれてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。 摩訶止観のこの内容は、日蓮の身にあてはまるばかりでなく、我が日蓮仏法の門家一同にも明鏡のように当てはまるものである。これをわきまえて、謹んで習い、次の世代に伝えて、未来の法華経の行者にとっての、修行の資料・糧としなさい。 英語で御書 Gosho in English If you propagate it, devils will arise without fail. If they did not, there would be no way of knowing that this is the correct teaching. One passage from th

末代幼稚の頚に懸けさしめ給う - With which he then adorned the necks of the ignorant people of the latter age.

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本文 一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み  末代幼稚の頚に懸けさしめ給う いちねんさんぜんを しらざるものには ほとけ・だいじひを おこし ごじのうちに このたまをつつみ まつだい ようちのくびに かけさせしめたもう 観心本尊抄 かんじんのほんぞんしょう [如来滅後五五百歳始観心本尊抄] にょらいめつご ご ごひゃくさい に はじむ かんじん の ほんぞんしょう [法本尊開顕の書] ほうほんぞんかいけんのしょ (254頁) 文永10年4月 (1272年) 通解(意訳) 一念三千の法理を知らない末法の衆生に対して、仏は大慈悲を起こし、妙法蓮華経の五字に一念三千の珠をつつみ、 仏の生命を大御本尊として曼荼羅に顕して、 末法の無知で幼いすべての衆生が、自身の仏の境涯を開くことができるようにして下さったのである。 英語で御書 Gosho in English Showing profound compassion for those unable to comprehend the gem of the doctrine of three thousand realms in a single moment of life, the Buddha wrapped it within the five characters [ of Myoho-renge-kyo ], with which he then adorned the necks of the ignorant people of the latter age. " The Object of Devotion for Observing the Mind  Established in the Fifth Five-Hundred-Year  Period  after the Thus Come One’s Passing " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 376 April, 1272. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 一念三千 を 識らざる 者 には 仏・大慈

始より終りまで弥信心をいたすべし - Be diligent in developing your faith until the last moment of your life.

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本文 弥 はげませ給うべし 懈ることなかれ、 皆 人の此の経を信じ始むる時は 信心有る様に見え候が・中程は 信心も よはく 僧をも恭敬せず 供養をも なさず・自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、 始より終りまで 弥 信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん いよいよ はげませ たもうべし おこたる こと なかれ、 みな ひとの この きょうを しんじはじむる ときは しんじん あるように みえ そうろうが・なかほどは しんじんも よわく そう をも きょうけいせず くようも なさず・じまんして あっけんを なす、これ おそるべし おそるべし、 はじまりより おわりまで いよいよ しんじんを いたすべし・さなくして こうかいや あらんずらん 新池御書 にいけごしょ (1440頁)  弘安3年2月 (1280年) 通解(意訳) さらに信心に励んでいき、怠ることがあってはならない。 皆、人がこの法華経を信じはじめる時は、信心がある様に見えるが、時が経って信心が深まる途中になると、信心も弱まり、僧侶(信心の先輩、同志)も敬うこともせず、御本尊へのご供養や、困った同志を助ける心も忘れ、慢心を起こして邪悪な考えを起こしてしまうものである。 これは大変に恐るべきことである。 始めから終りまで、いよいよ信心を深めて貫くべきである。そうでなければ後悔するであろう。 英語で御書 Gosho in English Strive ever harder in faith, and never give in to negligence. All the people appear to believe sincerely when they first embrace the Lotus Sutra, but as time passes, they tend to become less devout; they no longer revere or make offerings to the priest, giving themselves up to arrogance and forming distorted views.  This is most frightening. Be diligent in develop

声仏事を為す - The voice carries out the work of the Buddha

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本文 経とは 一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く 声仏事を為す 之を名けて経と為すと きょう とは いっさいしゅじょう の ごんご おんじょう を きょう と いう なり、しゃく に いわく こえ ぶつじ を なす これ を なづけて きょう と なす と 御義口伝 おんぎくでん 南無妙法蓮華経 なんみょうほうれんげきょう (708頁) 通解(意訳) (南無妙法蓮華経の) 経とは、一切衆生の言葉や発する音、声をいうのである。章安大師は、「声が仏の振る舞い等の働きをする。これを名付けて経という」といっている。 このように、南無妙法蓮華経こそ最高の法であり、最高の音声(おんじょう)なのである。 英語で御書 Gosho in English Kyō [of the Nam-myoho-renge-kyo] represents the words and voices of all living beings. A commentary [On “The Profound Meaning,” volume one] says, “The voice carries out the work of the Buddha, and this is called kyō, or sutra.” ==================================== Nam-myoho-renge-kyo " The Record of The Orally Transmitted Teachings "  Part One, P 4 ==================================== [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  The voice is work like a Buddha's behavior. thus, Nam-Myoho-Renge-Kyo is a greatest law and a greatest voice.  Gosho in Japanese 経とは 一切衆生 の 言語音声 を 経 と 云う なり、釈 に 云く 声 仏事 を

深く信ずる者は満月の闇夜を照すが如し - For those who have profound faith, it is as though a full moon were illuminating the night.

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本文 法華経は闇夜の月のごとし 法華経を信ずれども 深く信ぜざる者は 半月の闇夜を照すが如し 深く信ずる者は 満月の闇夜を照すが如し ほけきょうは あんやの つきの ごとし ほけきょうを しんずれども ふかく しんぜざるものは はんげつの あんやを てらすが ごとし ふかく しんずる ものは まんげつの あんやを てらすが ごとし 薬王品得意抄 やくおうぼん とくい しょう (1501頁) 文永二年 (1265年) 通解(意訳) 法華経は闇夜の月のようなものである。 法華経を信じたとしても、深く信じない者は半月が闇夜を照らすようなものであり、深く信ずる者は満月が闇夜を照らすようなものである。 英語で御書 Gosho in English The Lotus Sutra is like the moon. For those who have faith in the Lotus Sutra, but whose faith is not deep, it is as though a half moon were lighting the darkness. But for those who have profound faith, it is as though a full moon were illuminating the night. " The Essence of the “Medicine King” Chapter " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 94 in 1265. [ --- ] is liberal translation. Gosho in Japanese 法華経 は 闇夜 の 月 の ごとし 法華経 を 信ずれども 深く信ぜざる 者 は 半月 の 闇夜 を 照す が 如し 深く 信ずる 者 は 満月 の 闇夜 を 照す が 如し HOKEKYO WA AN-YA NO TSUKI NO GOTOSHI HOKEKYO WO SHINZUREDOMO FUKAKU SHINZEZARU MONO WA HANGETSU NO AN-YA WO TERASU GA GOTOSHI FUKA

広宣流布大願をも成就す可きなり - will fulfill his great vow to broadly proclaim and propagate the Lotus Sutra.

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本文 法華経の行者は 信心に退転無く 身に詐親 無く・一切法華経に其の身を任せて 金言の如く修行せば、 慥に後生は申すに及ばず 今生も息災延命にして 勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり ほけきょう の ぎょうじゃ は しんじん に たいてん なく み に きしん なく・いっさい ほけきょう に その み を まかせて きんげん の ごとく しゅぎょう せば、 たしか に ごしょう は もうす に およばず こんじょう も そくさいえんめい に して しょうみょう の だいかほう を え・こうせんるふ だいがん をも じょうじゅ す べき なり 祈祷経送状 きとうきょうそうじょう (1357頁) 文永10年正月 (1273年) 通解(意訳) 法華経の行者は、信心においては退転なく、行動や振舞いにおいては偽り親しむことなく誠実に、一切を法華経にその身を任せて、金言のとおりに修行するならば、たしかに後生(未来世)はいうまでもなく、今生においても息災延命で、勝れた大果報を得て、広宣流布という大願をも成就することができるであろう。 英語で御書 Gosho in English Practitioner of the Lotus Sutra remains unwavering in faith, free of all false alliances, entrusting himself wholeheartedly to the Lotus Sutra and practicing in accordance with the Buddha’s golden words, he will without fail be able to prevent disaster and prolong his life in this present existence, to say nothing of in the life to come. Splendid recompense will be his, and he will fulfill his great vow to broadly proclaim and propagate the Lotus Sutra.  " Letter Sent

妙法蓮華経とは其の体何物ぞや - What is the entity of Myoho-renge-kyo?

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本文 問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、 答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、 問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、 答う勿論なり経に云く「所謂諸法・乃至・本末究竟等」云云 とう みょうほうれんげきょう とは その たい なにもの ぞや、 こたう じっかい の えしょう すなわち みょうほうれんげ の とうたい なり、 とう もし しかれば われら が ごとき いっさいしゅじょう も みょうほう の ぜんたい なり と いわる べき か、 こたう もちろん なり きょう に いわく「しょいしょほう・ないし・ほんまつくきょうとう」うんぬん 当体義抄 とうたいぎしょう (510頁) 文永10年 (1273年) 通解(意訳) 問う、妙法蓮華経とは、その当体は、どのようなものであろうか。 答う、心の状態を顕した十界の依報と正報とのすべてが、妙法蓮華経の当体である。 問う、もしそうであるならば、我々のような凡夫をはじめ、一切衆生も妙法の全体であるといえるのであろうか。 答う、もちろんそうである。その証文としては、方便品第二に「所謂諸法・乃至・本末究竟して等しい」とあるとおりである。 妙法蓮華経とは、その人の身心の事であり、身心の状態がそのまま妙法の当体なのである。 英語で御書 Gosho in English QUESTION: What is the entity of Myoho-renge-kyo? Answer: All beings and their environments in any of the Ten Worlds are themselves entities of Myoho-renge-kyo. Question: If so, then is it possible to say that all living beings, such as ourselves, are entities of the Mystic Law in its entirety? Answer: Of course. The sutra says, “This reality [the true aspect of all phenomena] consists of the appearance

御みやづかいを法華経とをぼしめせ - Regard your service to your lord as the practice of the Lotus Sutra.

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本文 御みやづかいを法華経とをぼしめせ、 「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり おん みやづかいを ほけきょうと おぼしめせ、 「いっさい せけんの ちせい さんぎょうは みな じっそうと あい いはい せず」とは これなり 檀越某御返事 だんおつぼうごへんじ (1295頁) 弘安元年4月 (1278年) 通解(意訳) あなたの仕事が、そのまま法華経の修行なのだと思いなさい。 法華経に「社会全般の政治・経済・産業・日常生活は皆、法華経と相反する事はない」と説かれているのは、このことである。 仕事も、日常生活も、すべてが法華経の教えの根本である「誠実な振る舞い」が基本となっているのである。  英語で御書 Gosho in English Regard your service to your lord as the practice of the Lotus Sutra. This is what is meant by “No worldly affairs of life or work are ever contrary to the true reality.” " Reply to a Believer " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 905 in April, 1278. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Regard your work as the practice of the Lotus Sutra. Because the work and everyday life are all based on "The Behavior of sincerely" which is the basis of the Lotus Sutra. Gosho in Japanese 御 みやづかい を 法華経 と をぼしめせ、 「一切 世間 の 治生 産業 は 皆 実相 と 相 違背 せず」とは 此れ なり ON MIYAZUKAI WO HOKE

一閻浮提うちみだすならば... - If all of Jambudvīpa were to be thrown into chaos...

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本文 大悪は 大善の来るべき瑞相なり、 一閻浮提 うちみだすならば 閻浮提内 広令流布は よも疑い候はじ だいあくは だいぜんの きたるべき ずいそうなり、 いちえんぶだい うちみだす ならば えんぶだい ない こうりょうるふ は よも うたがい そうらわじ 減劫御書 げんこうごしょ [智慧亡国書] ちえぼうこくしょ (1467頁) 建治2年以後 (1276年) 通解(意訳) 大悪は大善が来る前兆である。 全世界の世相が打ち乱れるならば、「一閻浮提の内に広く流布せしめる」(全世界に民衆救済のための法華経が広く流布する)の経文の通りになることは、よもや疑うことではないのである。 英語で御書 Gosho in English Great evil portends the arrival of great good. If all of Jambudvīpa were to be thrown into chaos, there could be no doubt that [this sutra would] “be widely propagated throughout Jambudvīpa.” " The Kalpa of Decrease " "The Writings of Nichiren Daishonin", Vol.1, p. 1121 After 1276. [ --- ] is liberal translation. Interpretation (liberal translation)  Jambudvīpa: All of the World Gosho in Japanese 大悪 は 大善 の 来るべき 瑞相 なり、 一 閻浮提 うちみだす ならば 閻浮提内 広令流布 は よも 疑い 候はじ。 DAIAKU WA DAIZEN NO KITARUBEKI ZUISŌ NARI, ICHI-ENBUDAI UCHIMIDASU NARABA ENBUDAI-NAI K ŌRYO-RUFU WA YOMO UTAGAI SŌRAWAJI 減劫 御書 GENKŌ GOSHO [智慧 亡国 書] CHI-E BŌKOKU SHO

なにの兵法よりも 法華経の兵法をもちひ給うべし - Employ the strategy of the Lotus Sutra before any other.

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本文 なにの兵法よりも 法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、 兵法 剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候 なに の へいほう より も ほけきょう の へいほう を もちい たもう べし、「しょよ おんてき・かいしつ さいめつ」の きんげん むなし かる べからず、 へいほう けんぎょう の だいじ も この みょうほう より いでたり,ふかく しんじん を とり たまえ、あえて おくびょう にて は かなう べからず そうろう 四条金吾殿御返事 しじょうきんごどのごへんじ [法華経兵法事] ほけきょうへいほうじ [剣形書]   けんぎょうしょ (1193頁)  弘安2年10月  (1279年)  通解(意訳) どのような策や方法よりも、信心によって智慧を引き出す「法華経の兵法」を用いていきなさい。 法華経を信受している者の成仏を妨げようとする、あらゆる魔の働きは、すべて信心の功徳で滅ぼすことができるのである(諸余怨敵・皆悉摧滅 しょ よ おん てき ・かい しつ さい めつ)。 教主釈尊の御金言が決して空しいはずがない。信心によって乗り越えられない苦難はないのである。 すべての世法も技術も、「心こそ大切なれ」という妙法の思想から生まれ出たものである。 いかなる逆境にあっても、題目を唱えて智慧を頂き、その智慧と御本尊の妙法の力を信じ抜いて、努力を惜しまず、前進する勇気をもって行動していきなさい。 信心も行動も、臆病であっては何事も成就することはできないのである。 英語で御書 Gosho in English Employ the strategy of the Lotus Sutra before any other. “All others who bear you enmity or malice will likewise be wiped out.” These golden words will never prove false.  The heart of strategy and swordsmanship derives from the Mystic Law. Have profound faith. A coward