譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し - This is similar to a tarnished mirror that will shine like a jewel when polished.

本文 衆生と云うも 仏と云うも 亦 此くの如し 迷う時は 衆生と名付け 悟る時をば 仏と名けたり、 譬えば 闇鏡も 磨きぬれば 玉と見ゆるが如し、 只今も 一念無明の迷心は 磨かざる鏡なり 是を磨かば 必ず 法性真如の明鏡と 成るべし、 深く信心を発して 日夜朝暮に 又 懈らず磨くべし 何様にしてか磨くべき 只 南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを 是を磨くとは云うなり しゅじょうと いうも ほとけと いうも また かくの ごとし まよう ときは しゅじょうと なづけ さとる ときをば ほとけと なづけたり、 たとえば あんきょうも みがき ぬれば たまと みゆるが ごとし、 ただいまも いっしんむみょうの めいしんは みがかざる かがみなり これを みがかば かならず ほっしょうしんにょの みょうきょうと なるべし、 ふかく しんじんを おこして にちやちょうぼに また おこたらず みがくべし いかようにしてか みがくべき ただ なんみょうほうれんげきょうと となえたてまつるを これを みがくとは いうなり 一生成仏抄 いっしょうじょうぶつしょう (384頁) 建長7年 (1255年) 通解(意訳) 衆生といっても仏といっても、また同様に2つの隔てがあるわけではない。迷う時は衆生と名付け、悟った時には仏と名付けるのである。 たとえば、曇っている鏡であっても、磨けば玉のように見えるようなものである。 一念無明の迷信とは、今の悩みや苦しみ等によって迷っている心の状態であり、まだ磨いていない鏡のようなものである。この鏡を磨けば、必ず仏性という本来生命に備わっている仏の生命(法性真如:仏界)を開き、明るく輝く鏡となるのである。 深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、また怠らずに磨いていきなさい。 では、どのように磨けばよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これを(生命という鏡を)磨くというのである。 英語で御書 Gosho in English It is the same with a Buddha and an ordinary being. When deluded, one is called an ordinary being, but when enlightened, one is called a Buddha. This is s...